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バリー・フラナガンを知っていますか?

日曜日、ひさびさに福岡市美術館へ足を運んだ。
ウエブサイトで企画展のスケジュールをみると、最近気になっているアンフォルメルの版画作品や、柳幸典さんのインスタレーション、 江戸時代の禅僧仙がい(がいは、がんだれに圭)の水墨画展などなどをやっている。どうするべ...と迷っていると、 コレクションのなかにバリー・フラナガンの野外彫刻があるのを見つけておどろいた。
美術館を訪問するときはいつも地下鉄を利用する。大濠公園駅で降り、広大な人工池沿いの遊歩道をのんびり歩いて10分。 草間弥生さんの水玉カボチャやアンソニー・カロの作品にむかえられて2階のエントランスホールにはいる。 NHK福岡放送局に面したメインエントランスからはいることは滅多になく、 そちら側にバリー・フラナガンの作品があることにまったく気がつかなかったのだった。

バリー・フラナガン。
1941年生まれのイギリスの彫刻家である。

美術館のサイトの解説にもあるように、 フラナガンはもともと砂や石膏を袋詰めにした(パッと見...サンドバッグみたいらしい)コンセプチュアルなオブジェを制作していたが、 80年代からウサギをモチーフに具象彫刻を手がけるようになった。 ぼくは彼のことを中沢新一さんの『野ウサギの走り』という著作で知ったのだけれど、作品のウサギたちのユーモアあふれる動きと、 醸し出されるメタフィジックな精神性にとても惹きつけられた。

その形態についてすこし具体的にいうと、ウサギたちは、その身体をぐいっと伸ばして跳躍しているものもいれば、 二匹でボクシングをしているもの、サーカスのアクロバット演技をしているようなものがいる。 手足を蛇のように伸ばし何をしてるのかわけがわからないもの...、なかには望遠鏡をのぞき込んでいる作品もあるという。 ウサギたちは、ユーモラスで躍動感あふれる何かをつねに「している」。 そして(ここがフラナガン作品のキモなのだが...)ウサギたちは例外なくシンボリックな形態の台座のうえで飛び跳ねている。
たとえば福岡市美術館の作品では、重量感ある釣り鐘の上にフラットな三日月がのせられ、その上をウサギが軽やかに跳躍している。 箱根の彫刻の森美術館にある作品では、二匹のウサギは十字架のうえでボクシングをしている。 あるものは(金属加工に使う)金床のうえでボクシングのファイティングポーズを取り、象の背中でヒンズー教の神様のようなダンスをしている。 ウサギたちのアクションとユニークな台座の組み合わせはメタフィジックな連想を誘う記号となり、作品を単なるユーモラスな具象彫刻にはせず、 精神性の高いものにしている。

日曜日、ぼくが見た「三日月と鐘の上を跳ぶ野うさぎ」も、眺めれば眺めるほどさまざまなイメージが湧いてくる。 釣り鐘は重量感ある金属であり大地、三日月は軽快で広大な宇宙、ふたつのシンボルに接地しながらも跳躍するウサギは、 まるで宇宙へ船出しようとする人間の探求心。 または、キリスト教世界(釣り鐘)とイスラム教世界(三日月)などイデオロギーを易々と飛び越えて疾走する... というのは単なる連想(憶測...笑)にすぎないのだが、いずれにしろこの彫刻には透明でしなやかな「精神」を感じさせてくれる。 それを「見る」ことのできる人間としての自分の不思議さ。しかも決してアカデミックにならず、 しなやかでユーモラス、親しみやすいところにフラナガンの作品の魅力がある。

しかし、なぜウサギなのか。

ウサギは、生態系のなかでは非常に弱い立場にあるという。草食動物のなかで、馬やカモシカのように逃げ足は早くなく、 リスやネズミのように身を隠すための小さな身体がない。身体が小さいため、植物を完全に消化する腸ももたない。 そこで「食糞性」といって、肛門に口をつけて自分の糞をもう一度食べて2度目の消化をしなければならない。 また、リスやネズミのように、木の実など高カロリーのものを食べる能力もない。あの大きな耳は、そのためのものなのだ。 いち早く敵の接近を感知して、草原の繁みや地下に逃げ込むための...。

ヨーセフ・ボイスは野ウサギを、国境やイデオロギーを易々と越えてユーラシア大陸を横断する未来の精神のシンボルとして、 アクションや作品にさかんに登場させた。ゆえに、ウサギは現代美術にとってはひとつの神話である。
しかし、イギリスのファンタジー小説『ウオータシップダウンのウサギたち』にリアルに描写されているように、どう猛で残忍な一面もある。

ウサギは人間にとっては親しみやすい動物ではあるけれど、進化のつまはじきものであり、明と暗、善と悪、 既知と謎の部分をあわせもっているように思える。目に見える部分と、目に見えない神秘の領域を跳躍し、 行き来することが出来る。まるで、人間が昼と夜に意識と無意識の世界を行き来するように。

ぼくはいま小学校に勤務しているので、ウサギは飼育小屋で日常的に見ていて、しばしば抱き上げもする。 学校のウサギは人に飼われているせいか太っていて、水を満たしたビニール袋のようにぶよぶよしている。 しかし、ジェット旅客機や新幹線の先端をおもわせる流線型の顔には、人を寄せつけない畏怖のようなものが存在する。
ぽりぽりと飽きることなくエサを囓りながら、長い耳で世界からのあらゆる情報をひろいあげ、 澄んだ目は異次元の精神を読み取っているのかも知れない。その雰囲気は、犬や猫とはまるでちがう。流線型の高速輸送システムのように、 すぐにでも遠くへ走り去ってしまいそうな、毅然とした雰囲気を漂わせている。

ウサギは鳥のように空は飛べない。跳躍することが出来るだけだ。
高く高く舞い上がろうとしても、その身体は重力に逆らうことは出来ない。フラナガンはそのことを熟知したうえで、 台座となる部分に三日月や十字架など、シンボリックな形態を持ち出したのではないのか。跳躍するというリズミカルな運動に、 人間の精神のありようや未来を託したのではないか。

福岡市美術館には、アンゼムル・キーファーの『メランコリア』という(現代美術の世界では有名な)作品が展示されている。 戦略爆撃機とおぼしき飛行機の形態を鉛の板で再現しながら、大戦で焦土と化したドイツの大地や文化の再生をかんがえる重厚な彫刻だ。 おなじように跳ぶ(飛ぶ)ことモチーフにしながら、まったくちがうベクトルを持つふたつの作品。『メランコリア』が屋内で(厳重に)展示されているのに対し、フラナガンの作品は屋外の開放的な場所で展示されているのもまた、 対照的でおもしろい。アートは深いのだ。

自分自身や人間の未来を、フラナガンの作品にふれたときのように愛することが出来ればと思う。しなやかで、ユーモラスな精神の未来...。

余談だが、柳幸典さんの企画展示「イカロスの飛翔」もまた飛行をテーマにしたインスタレーション作品であったけれど、フラナガンやキーファーとくらべるとずいぶん見劣りがした。 残念...。イカロスの末路がどういうものなのか、アーチストもじゅうぶん承知のはず。

++
参考文献・『ヨーセフ・ボイス、国境を越え、ユーラシアへ』ワタリウム美術館

福岡市美術館 「三日月と鐘の上を跳ぶ野うさぎ」
箱根の彫刻の森美術館 「ボクシングをする2匹のうさぎ」

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by thatness | 2005-10-12 20:48 | 美術_art,photo
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