カテゴリ
以前の記事
2006年 08月 2006年 07月 2006年 06月 2006年 05月 2006年 04月 2006年 03月 2006年 02月 2006年 01月 2005年 12月 2005年 11月 2005年 10月 2005年 09月 2005年 08月 2005年 05月 2005年 04月 2005年 03月 2005年 02月 2005年 01月 2004年 12月 2004年 11月 2004年 10月 2004年 09月 2004年 08月 2004年 07月 2004年 06月 フォロー中のブログ
検索
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
一年二十四節気。
季節は変われどお馴染み、空き地を走りまわる愛犬を眺めながらコーヒーを啜る土曜日の朝。至福の時。 ナニゲにわが家の北の方向、梅T町方角を見ると、銀色の鉄塔がそびえ立っているのを見つけてびっくりした。 高圧電線の鉄塔ではない。テレビかラジオかわからないけど、無線中継のための単独の鉄塔のようである。 いつのまに完成したんだろう。 母を呼んで訊ねてみたが、わからない。愛犬は知ってるかなあと思ったが新しい穴を掘るのに夢中...。 呼んではみたもののワンとも応えてくれなかった。 ひょっとすると、あの鉄塔はずっと以前からあったのではないか。 いままで気がつかなかっただけで、ペイントを塗り直して目立つようになり、光の加減で突然気がついたのかも知れない。 時計をじっと眺めていても変化に気がつくことがないように、知覚の能力を超えた漸次的な変化というものがある。 ぼくはいまだに宮澤賢治の作品にも描かれた「座敷ぼっこ」の話が好きである。 知っているものは5人しかいないのに、数えてみるとひとり多い。何回数えてもひとり多い。自分はほんとうに自分か。 もうひとり多い、見知らぬ誰かがほんとうの自分ではないのか。認知のねじれ、存在感の喪失。 わかりかけているのにわからないという感覚、あるいはわかっていいはずなののに、たぶんわかってないんだろうという観念。 いつのまにかわが家が何十もの鉄塔で囲まれていても、雨が一滴も降らなくなり山が砂漠になってしまっても、 違和感なくあたりまえの風景として受け入れてしまう。神の見えざる手が、ぼくを騙そうとそろりそろりと風景に手を加えている。 神のたくらみはちらりちらりと見えることはあるのだが、全体像がみえない。空想癖がひどかった中学生の頃の、錯乱への憧憬。 梅T町の方角に鉄塔が見えることを、ぼくはもう 知ってしまった。 昼も夜も、夏も冬もそこに鉄塔が立っていることが頭に入ってしまい、風景として刻みつけられてしまった。 それがなんだか寂しい。この空き地から眺めて、あっと思うような風景の気づきに出会える機会は、これからもあるだろうか。 聞こえるはずのない「存在」のたくらみに、これからもぼくは耳を傾ける。
by thatness
| 2005-12-04 00:11
| ある日
|
ファン申請 |
||