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ベイヌム指揮コンセルトヘボウ管、渾身のブラームス

記憶。

それがどんなに鮮明なものでも、ちっとも正確ではない場合がある。 人間の脳は、ニコンのレンズで撮ったような鮮明な光景でも、時の経過と共に勝手に編集してフィクションを作り上げてしまうことがあるようだ。

小学生の低学年か、幼稚園の頃。父がシンフォニーのレコードを聴かせてくれたことがあった。 ドヴォルザークか、ベートーヴェンか...全然わからないけどドイチェ・グラモフォンの黄色いロゴはたしかにあった。 演奏はやっぱりカラヤンとベルリンフィルだったのかな。 いま、わが家に残っている父の古いレコードというとそればっかりだから、それはまあ、間違いない。

記憶がでたらめなのは、映像である。音ではなくて...。映像なのである。

「本当はこんなことしちゃいかんのだが...」といいつつ、 父はテレビ(当時はまだモノクロだった)の入力端子にプレーヤーからのコードをつなぎ、音楽を再生して見せた。 するとスピーカーから音が出てきただけでなく、なんとブラウン管にも、 ヨーロッパの大聖堂で演奏する指揮者とオーケストラの姿が映し出されたのである。 コントラストが強くてモノクロのシルエットしか見えなかったのだけれど、両腕をはげしく上下させて指揮をする指揮者と、 外光で浮き彫りのようになったようなステンドグラスの光がはっきりと見えた。

子どもなりに理解にしたのは、レコードプレーヤーをテレビと接続すると、運良く演奏の映像が映し出されるときがある、 しかしやりすぎるとテレビが壊れてしまうので、いつも見せられるものじゃない...ということであった。 その後、ぼくは父に何度かレコードを「見せて」とせがんだようである。何度かトライしてもらったけれど、テレビのスピーカーから音だけが流れ、 食い入るように見つめたブラウン管には何も映し出されなかった、ような気がする。

これはいったい何なのだろうか...笑。

父がテレビとレコードプレーヤーを接続して音楽を再生したことは、あったかも知れない。 そのときたまたま流れたモノクロのシルエット映像を、演奏風景と勘違いしたこともありえない話じゃない。 けれど、すべての事柄はばらばらに起こったに過ぎず、ずっと後になって都合よくモンタージュしただけかも知れない。 あるいは(実はこれは一番ありそうなことだが)、友達にレコードから映像が見えたといいかげんなことを言って、 ほらがいつのまにやらリアルな記憶として脳に焼きついてしまったのかも知れない。

書きながら思い出したのだが、ぼくは子どものころ、かなりのほら吹きだった。 懐中電灯の光が真横から飛び出すのが見えるとか、走っている列車の窓の向こうの人の顔が見えるとか、空飛ぶ円盤を見たとか...。 嘘をついたのではない。見えたらいいな、という気分がついつい「見えた」になってしまう。 勉強も体育もダメなぼくは、そういう荒唐無稽な特技?で友達の注目を集めたかったのだ。 こういういい加減なことをやってきたせいか、いまでも人の話がきちんと聞けなかったり、物事を正確に報告できなかったり、いろいろと苦労している。

記憶は、音声よりも映像が残りやすく、古ければ古いほどその傾向は強い。 どなたも自分のなかで一番古い記憶というものを持っている(認定している)と思うが、音や触覚よりも圧倒的に映像なのではないかと思う。 しかし思うに、視覚的な記憶は鮮明だが嘘が多い。かんたんに捏造、編集が出来てしまう。ぼくのほら吹き記憶もほとんど映像記憶である。 しかし音声の場合はなかなかそうはいかない。かなり古い記憶でも正確に残るのではないか。

昨年、エドワルド・ファン・ベイヌムがアムステルダム・コンセルトヘボウ管を指揮して録音(1958年)した、 ブラームスの交響曲第1番を何度も何度も聴いた。もちろんいまでもよく聴いている。素晴らしいブラームスである。

何がいいのかというと、昨今のオーケストラからは消滅してしまったどっしりとして、男性的な存在感あふれる響きがたっぷりと聴けるからである。 ディスクをプレーヤーに装填し、あのぶわーっというハーモニーがスピーカーからあふれ出したとき、 これは父がテレビのスピーカーから流してくれたあのオーケストラサウンドだと確信した。
ウイーンフィルの女性的なしなやかさも、デジタル時代のカラヤンが作ったベルリンフィルのメタリックな光沢もないが、 ロダンの彫刻を見るような重量感と生命力にあふれている。 あの時、テレビから聴かされた演奏がまさにこれだった、というとまたほら吹きになってしまうけれど、 父の世代がリアルタイムで聴いていたオーケストラサウンドは間違いなくこれである。

このサウンドに天然色は似合わない。あのときテレビで見た(と思い込んでいる)、コントラストの強いモノクロのシルエット映像こそがふさわしい。 もし本当にレコードに映像が吹き込まれていたとしても、あのモノクロ映像以外にイメージすることはむずかしい。

ベイヌムは、メンゲルベルクがナチへの協力容疑で音楽界から追放された後、シェフを失ったコンセルトヘボウ管を立て直した指揮者として知られている。 その音楽は、浪漫的で陶酔的だったメンゲルベルクとはまったく反対の、近代的で理性的な解釈が特徴といわれ、 ブラームスでもまさにそういう音楽を聴かせてくれる。しかし、理性的な解釈でも音楽が無味乾燥にならず生命力にあふれているのは、 やはり往時のコンセルトヘボウの力量だろうか。安易な運指やあつかいやすい楽器にたよらず、 愚直に伝統を守りつづけた多国籍化する前のオーケストラの響き。 この録音は、多少糸が乱れようとも、心をあわせて伝統の音を出していたオーケストラと才能ある指揮者との歴史的遺産といっていいと思う。 ベイヌムはこの録音の翌年、心臓発作に倒れ58歳の若さでで急逝してしまうので、その意味でも高い価値がある。

昨今のオーケストラは、団員の多国籍化、商業主義の台頭でサウンドがグローバル化してしまったと、よくいわれる。 しかしクラシック音楽はもともと、時代の流れにのってサウンドや解釈がどんどん変化していくという宿命を背負っている。 クラシック音楽の世界は、音符から芸術を引き出すことができる才能には(日本や東洋の伝統芸能と比較してみると格段に)広く門戸が開かれている。 才能ある者には、自由が保証されている世界。
しかしそれ故、音はどんどん変化していく。 モーツアルトやベートーヴェンが聴いたオーケストラサウンドはどのようなものだったのか、いかに古楽器の研究が進もうと永遠にわかることはないだろう。 映像機器、録音機器の進歩が進んでも、オーケストラサウンドの生々流転を止めることはできない。

記憶はときに明晰で、ときに曖昧なものではあるが、いずれにしろ生きた人間のなかにしか宿ることができない。 記憶を生み出すのは、この世界に時間というものが存在するからだ。音楽とは、目に見えない時間に色彩をつけるようなものかもしれない。 煙に色をつけて空に流せば、風の姿が見えるように。
よくよく考えてみると、人間もまたこの世界では音楽のように存在しているといえないだろうか。 それぞれの人間がそれぞれの色彩に染め抜かれながら、有限の存在を背負いながら、時間のなかで「人生している」と...。

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by thatness | 2006-02-12 13:01 | 音楽_classic
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