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原田洋治郎くんとは1980年に知りあった。ニーチェとローリングストーンズが好きで、美術や文学にも詳しかった彼にはいろんな事を教えてもらった。 以後、交友関係は現在に至る。
その時すでに、彼はすでに完成度の高い詩を書いていた。もっとも当時のぼくには、彼の作品を読み取る力は全然なかったのだが...。 ある時、作品の感想を求められ、「分かり易すぎるね」と間抜けなコメントをしてまったのをいまでも覚えている。 象徴主義の文学やシュールレアリスムが大好きだったぼくは、平易な言葉で書かれているというだけで、ポエジーがないと決めつけてしまっていたのだ...。 唯一の救いは、「なんとなく、大岡信の世界を感じる」と言ったら、とてもよろこんでくれたこと。 彼は大岡さんの詩が気に入っていて、そういえば誘われて講演会に行ったこともあった。 原田くんは楽屋に入り込み、ルーズリーフの切れ端に詩人のサインをもらったのだったが、まだ持っているかな。 さて、詩集『生命』。 この詩集は、原田くんが20代のころから現在まで書きつづけた作品の中から、本人が自選して収録したものである。 知りあった当初から「年を取っても詩を書きつづけられる人間はすごい」とよく言っていたが、果たしてそれは彼自身のことになった。 ぼくはといえば(10代の中ごろからしばらく散文や詩を書いていたが)早々に創作を放棄し、30代後半に再開してふたたび休眠期に入ろうとしている。 彼は書きつづけてきた。しかも、彼自身の知覚の体系というものを持っている。原点となった詩人(大岡信)はいるものの、そこから出発し、 独自の世界を開示しつづけてきた。彼が、彼の人生を生きながら書き、書きながら生きてきた結果である。彼の作品はいま、誰にも似ていない。 原田くんの詩は、いつも平易な風景、日記風の季節感を記述するところからはじまる。 しかし、画家が風景をスケッチして絵を仕上げるようには詩を書かない。 彼の言葉は、画家の筆先でも絵の具でもなく、風景そのものが還元された宇宙的なエネルギーといっていい。 たとえば、原田くんが川について詩を書いたとしよう。 彼はそこに、目の前に川があること、水が流れ、空が広がっていることを、自分の手(視点)で記述しようとはしない。自意識を離れなければけっして見えてこないほんとうの世界を、開示してみせる。 ただただ、川が流れている、それとおなじように自分がそこに存在している、すべてが平等に「生きている」ことのよろこびと神秘を、光や色彩のイメージを駆使して追体験させてくれる。 春爛漫の田舎道で、初夏の公園で、真冬のテニスコートで、彼がその場所、その時にシンクロさせた光や大気、色彩が、 そのままエネルギーとなって言葉へと還元される。どんな平易な風景にも熱と光があり、宇宙がある。宇宙と自己をリンクさせているのが「生命」である。 彼の詩を読むと、ぼくは滝壺のそばで水の飛沫を浴びているような気分になる。 言葉が、身体の細胞のひとつひとつに浸みわたり、癒されるのである。彼の言葉は、生命である。 ++ 生きること それはこの宇宙の中で 呼吸すること 歌うこと 詩人 それは 生きるために歌うことだ 光を求めて 「生きる」より ++ 歌うのは誰だろう? 死を前にした老人 世界を新しく歩む人たち 今 生まれてきた子供たち 歌を聞いている人たち 人は歌う時 この世界で生きる勇気を持つ 「詩人」より ++ 原田くんはよく、大岡信さんの詩にしばしば出てくる波動というイメージについて語ってくれた。彼自身の知覚で「波動」をつかみ取ること。 その境地に作品を高めるために彼が実践したのは、徹底して言葉を吐き出すことであった。 読書会を主宰したり、さまざまな勉強会や心理学のグループカウンセリングにも積極的にかかわり、自己を、知識を洗いざらい吐き出してしまう。 そして、真空と化した自己に、新鮮な宇宙の息吹を充満させる...。世の中の詩と称するもののほとんどは自意識の発露か自己慰安に過ぎないとするなら、 原田くんの作品は、自己を超えた世界の見え方が開示されているすぐれた達成であるにちがいない。きれいに灰汁抜きされ、透き通ったほんとうの生命のスープが、そこにある。 ハイデガーは、「哲学とは、存在を言葉によって歌うこと」といったそうだが、原田くんは、まったくおなじ仕事のできる本物の詩人だと思う。 ぼくのいうことは決して大袈裟ではない。詩集『生命』を読んでいただければ納得していただけると確信する。 amazon ++ 「波動というはるかなもの」 大岡信 よくきく眼は必要だ さらに必要なのは からだのすべてで はるかなものと内部の波に 同時に感応することだ こころといふはるかなもの まなこといふはるかなもの 舌といふ波であるもの 手足といふ波であるもの ひとはみづから はるかなものを載せてうごく波であり 波動するはるかなものだ
by thatness
| 2006-03-14 23:51
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