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村上春樹氏を嗤う(『文藝春秋』06年4月号の記事)

村上春樹氏が『文藝春秋』誌最新号に、3年前肺ガンで亡くなられた編集者、安原顕さんについての記事を書いていることを知った。 いやな予感がした。お二人ののあいだにトラブルがあったことは知っていたので、気持ちのいい記事が読めるとはとうてい考えられなかった。 けれど、読まずに放っておく気持ちにもなれない。小見出しに「生原稿流失...」などという文字が踊っているではないか。 やはり目を通さずにはいられないのだ。

記事の感想を書く前に、安原顕さんについて、いち読者の立場からではあるがご紹介しておかねばならない。 村上氏の記事で安原さんのことを誤解されては困るなあ、という思いがある。

安原顕さんはおもに(もう死語だろうけど)「純文学」の作家たちと仕事をした名物編集者である。 中央公論社に在籍していたころは『海』、『マリ・クレール』を手がけ、村上春樹氏の翻訳作品、吉本ばななさんの『TSUGUMI』などを世に送り出す。 その後フリーを経て、メタローグを立ち上げ活躍。さらに作家や編集者を養成するライタースクールも開講する。 自らスーパーエディターと名乗り、メディアにも積極的に露出した異色の編集者、出版プロデューサー。

しかしながら、ぼくら市井の読書人にとっては、なんといっても眼力のある書評家、コラムニストとしての印象が強い。 安原さんはとにかく、読者を惹きつける書評やコラムをたくさん書いた。これはと目を付けた作品は、情熱的に褒めまくる。 しかし個々の作品は支持するが作家を手放しで褒めないのが彼流で、つまらなければ「クズ」と断罪する。新人だろうが、大作家だろうが手綱をゆるめない。

舌鋒はときに「暴走」し、眉をひそめるような文章もしばしばにあった。 とくに原稿依頼をシカトもしくは履行出来なかった作家への罵詈雑言は強烈で品位を欠いた。 ご意見に賛同はするが、作家への最低限のマナーもあるだろう、と呆れてしまう。 もっとも、相手がどんな大家であろうと容赦なくケンカを売る姿勢は、天晴だった。 品位の欠ける悪口ではあったが、安原さんはみずから出版社を立ち上げるなどやることはやってきた方なので、説得力がある。 大作家や大手取り次ぎにドンキ・ホーテ的な挑発を繰り返しながら、最後まで愚痴にならないのが頼もしかった。

安原顕さんは、期待する作家のいい作品が読みたい、その一心で仕事をされた方なのだと思う。期待を裏切られれば激怒する。 書き手の側に身を置きながら、心はつねに読み手の側にあったのではないか。文章に品位を欠くことがあっても、悪意はまったくなかった。 ただただ、いい小説、いい音楽(ジャズをとくに愛した)に飢えて飢えて、突っ走ってこられたのだった。

というわけで、今回の村上春樹氏の記事なのである。案の定、これはかなり後味の悪い...読んでしまった自分が口惜しくなるような記事である。

安原さんはたしかに、いつの頃からか村上氏の仕事をはげしい舌鋒で攻撃するようになった。もっとも、舌鋒の餌食になった作家はほかにもたくさんいたし、 毒舌は彼のトレードマークみたいなものでもあったので、正面切ってケンカを売る作家はほとんどいなかったと思う。 そういえば村上氏は、かつて安原さんのことを「放たれた熊」(アーヴィングの処女作のタイトルをもじったもの)と評したことがあり、これには笑った。 舌鋒にはユーモアで斬り返すセンス。しかし今回の記事には、そんな余裕はまったく感じられない。

書かれている内容は、おそらくすべて真実だろうと思う。安原さんは眼力のある編集者でコラムニストだったが、聖人君主ではなかった...あたりまえだけど。 今回の記事にあるように、安原さんは村上氏の自筆原稿を勤め先にも村上氏にも無断で自宅に持ち帰り、勝手に保管していた。 そして亡くなった後、善意の第三者(この場合ご遺族)の手によって古書店に流れてしまった。 事実そのものはまことに遺憾というしかなく、村上氏が不愉快になるのは当然の話だ。

しかし、である。安原さんはすでに故人であり、彼の責任をいまさら問うのは筋違いではないかとぼくは思う。 村上氏が説明を求め、事後処理を要求すべき相手は、安原さんが当時勤務していた出版社でなければならない。 というか、これだけの社会的地位を築き上げた作家である。こういう記事など書かずに、自腹を切って原稿を買い取る器量はなかったのだろうか...。
村上氏には、安原さんの攻撃へのエクスキューズという文脈を排し、モラルの欠けた編集者への警鐘として記事を書くチャンスがあった。 しかし彼はそうせず、当時者の実名を上げて事の顛末を記事にしてしまった。 実名をあげられて傷つくのは誰あろう、事情を知らずにブツを処分してしまったご遺族である。

もうひとつ、今回の記事でどうしてもゆるせない内容がある。

それは、安原さんがひそかに小説を書いていて、本名をかくして文学賞に応募しては落選しまくってたという過去の「暴露」である。 彼とつきあいのあった作家には周知の事実だったそうだが、いち読者であるわれわれはまったく預かり知らぬところであり、 これには思いっきり仰天してしまった。苦労して書き上げた作品を安原さんに「クズ」呼ばわりされた作家、作家の卵は枚挙に暇がないだろう。 舌鋒の矛先となった方々は憤懣やるかたないだろうし、自称スーパーエディターの正体見たりと、墓に唾をかけるような暴言を吐く輩も出てくるかも知れない。 なんともせつない話である。

それでもぼくは納得できない。没後3年もたっているのに、どうして故人の過去を「暴露」する必要があったのだろう。 記事の中で村上氏は、安原さんのことを本当は小説家になりたかったがかなわず、そのルサンチマンが作家への攻撃に向かわせている、 という主旨のことまで書いている。この発言はいくらなんでもアンフェアではないのか。才能ある作家がごまんとるわけではない。 小説家になりたくてなれず、編集者をしている(それでも作家を目指している)人間は安原さんだけではないはずだ。
こういうエピソードは、たとえば中央公論社で同僚編集者だった村松友視氏あたりが後日談として発言するならわかる。 しかしながら、海外でも評価の高いベストセラー作家の発言としてふさわしいものだろうか?  何万回毒舌を吐こうが、お前は小説を書けない、おれには書ける...それを言ったらゲームオーバーである。 どうひいき目に見ても、アンフェアな発言としか思えない。

ぼくは村上春樹氏の作品を「1973年のピンボール」を『群像』誌ではじめて読み虜になった。 「風の歌を聴け」を掲載した『群像』誌も手元にあり、もっとも早い時期のファンであることがささやかな誇りだったりもする。 3部作の作中人物「僕」は、20代の自分に大きな恵みを与えてくれたし、作者本人の人物像として昇華されてしまっている。 それは誤解だったのだろうか。今回の記事の書き手である村上氏と、あの素晴しい小説を書き上げた村上春樹との落差に、失望を禁じ得ない。

村上氏はこの記事で、自分は安原顕という人物から多くのものを学んだが、育てられた覚えはないと強い口調で書いている。それはそうだろう...。 村上氏はとてつもない才能と実績のある作家だ。安原さんとの邂逅がなくとも、現在の地位は築けたのは間違いない。 そんなことは読者はみんなわかっている。

没後3年経ち、故人の名誉を汚してまで心情を発露せざる負えない心理。 村上春樹という人物はかくも小心者なのか、文壇とは人間の基本的モラルも蝕む伏魔殿なのか。 どっちにしろ、いまの村上氏には、客観的な立場で進言できる人間がいないのではないか。 まるで、晩年の黒澤明監督みたいだ。日本での評価は下がる一方なのに、アメリカで高くなるところも似ている。

結論。
ヤスケンのファンは、この記事を読む必要はない。
村上春樹のファンは、読まないほうがいい。
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by thatness | 2006-03-22 11:27 | ある日
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