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盲亀浮木

火曜日。
目が覚めても起きられない。強い不安感と鬱。からだを折り曲げて、足先が小刻みにふるえている。 まあ、貧乏揺すりなんだけど、無理に起きない方がいいと思い、手足をのばして全身の力を抜き(不安感に襲われているときは、 これが意外と難しい)ぼんやりとそのままベッドで過ごす。...午前中はもう捨てた。眠ったり覚醒したりを繰りかえし、11時過ぎに起き出すことが出来た。 空き地に出て、跳ね回る愛犬を見ながら、ぼんやりとコーヒーを啜る。きょうは何をしても、自分を追い詰めることになりそうだ。 部屋の整理をしたり、あさってからはじまる仕事の準備をしたりしよう。適度にからだを動かす。それしかない。

いきなり話が飛ぶのだが、仏教の古い経典(雑阿含経)に「盲亀浮木」の譬えというのがあるらしい。釈尊は比丘(弟子)たちに問う。「この大海に一片の頸木(くびき、牛車の端につけて、牛に架ける部分)を投じたとする。 大海から、百年に一度だけ、盲目の亀が浮かんできて顔を出すという。その亀が頸木の孔に首を突っ込むということがあろうか?」...あるわけがない。 あれば天文学的偶然だ。釈尊はこの譬えから「人身を得て生きている」というのはこれほど希有なものと心得よ、と説いている。 ぼくはこの逸話がとても好きである。

いま読んでいる「正法眼蔵」にも、おなじような話が出てきた。
人間は死ぬとどうなるのか、肉体は滅んでも魂はそのまま生き残るのか。 心身は合一であるので、それは虫のいい妄執にすぎないと道元は一蹴しているのである。 釈尊も、来世の存在など考えるに値しないと、有名な毒矢の譬えで説いている。

もちろん、それが正しいのかどうかぼくにはわからない。来世はあるかも知れないし、ないよりはあったほうがいいと正直思うこともある。 ただ、釈尊が説いているように、いま人身を得て生きていることが希有なことであると思うべきだろう。 人として生まれることが、「盲亀浮木」とおなじくらい貴重なことだと説かれると、逆に気が楽になるから不思議だ。
では、この「盲亀浮木」の人生をどのように生きればいいのだろうか...。あまり遠くを見て大急ぎで走っても、すぐに息切れしてしまう気がする。仕事や義務に追い立てられ、押しつぶされるのもいやだ。ありふれた結論だけれど、自分の能力と時間をはかりにかけて、日々集中して有意義に生きるしかないのだと感じている。

気力があるときは、あれもこれもと何でもできる。
大切なのは、そこをスケールにしてはいけないことか。

心身が自由にならないときは、後回しにできるものはみんな後回しにして、ぼんやりすると決めたらぼんやりすればいい。 ただ今日(火曜日)は天気がいいので、部屋の整理と仕事の準備、それくらいはできそうだ。 それだけはやってみる。ひとつかふたつ何か決めて集中する。 それは一ヶ月、一年でものを考えるときも同じで、あれこれ欲張らず、ひとつだけ達成できるものがあればいいと思う。目標は柔軟に、状況に応じてゴムのように伸び縮みするのがよい。

集中してなにかをすれば、かならず余暇が生まれる。
それが、この文章を書く時間と気力をあたえてくれた。まさにご褒美だ。
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by thatness | 2006-04-26 17:42
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