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庄野潤三『ピアノの音』

数年前のこと。 郊外の古本屋で、ばら売りされていた新潮の日本文学全集の中から、 石川淳と安岡章太郎、庄野潤三の作品集をそれぞれを買った。 一冊500円くらいだったと思う。 もちろんいまも手元にはあるが、短編ひとつ読まれることもなく本棚に詰め込まれすっかり持ち主に忘れられている。 まるで、海中に沈められたコンクリートブロックである。

ところが昨年末、書店で平積みされている『ピアノの音』(講談社文芸文庫)が目に止まった。 シンプルで上品な装幀と、短旋律の宗教音楽を聴くような美しい文体に目を奪われ、購入。年明けから読みはじめた。
内容はというと、一見すると小説家の身辺雑記なのである。 小説家は小田急小田原線生田あたりの小高い丘に妻と二人で暮らしている。

3人の子供たちそれぞれ独立し、家を出た。 実家は子供たちに「山の上」と通称され、頻繁に往き来があるが、老夫婦の日常生活は雲が流れていくようにゆっくりと流れていく。 「夜、ジップ一声も吠えない。朝、起きたとき、ジップがいるのを忘れていた。 小屋の中に入れておいたタオルケットを一枚、外に張り出してあった。その上で寝たのか、 それともくつぬぎ(ここがジップは好きだ)にのせておいたまるいわらマットの上で寝たのか、わからない。 朝、雨戸をあけたときには、くつぬぎの上に坐っていた。」180頁

「ブローディア。妻は庭にブローディアの芽がいくつか、ひょろひょろと出ているのを見つけた。 飢えた覚えは無いから、プランターのブローディアを植えかえするときに、 土を捨てた中にブローディアの球根が混じっていたのだろうか。掘り返したら、 指の先くらいの小さな球根が出て来たのを、前にゼラニウムの入っていた植木鉢に植えたという。 よろこんでいる。」270頁

『ピアノの音』では、こういうけれん味のカケラも無い生活描写がえんえん300頁も(ただし、見事に構成されている。 だらだらしているわけではない、念のため)つづく。当然読書のピッチは上がらない。 ぼくの場合で3週間もかかってしまった。それでも面白くて仕方がない。

この小説では作家の内面がまったくいいほど聞こえてこない。淡々とした事実の描写(あるいは羅列)がつづく。 素の文章そのものだけが、ある。
小説に限らないだろうけど、文章を書くという行為には、生きているこの世界での自己実現、 あるいは自己の再構成への欲求みたいなものが大なり小なり入り込んでしまうものと思う。 登場人物の誰かが、土地や物語そのものが、書き手の分身となり、自己を内面的にアップデートしたり慰安するのに一役買う。
ところがこの作品では、作家の内面は(どういうプロセスを経てこうなのか、他の作品を読んだことがないのでわからないけど) 見事に削ぎ落とされている。語り手たる庄野潤三はいるが、その中にはいってゆけない。 読み進むうちに、自分が小説世界を空気のように偏在して行ったり来たりしているのを感じる。 ある場面では小説家の、ある場面では孫のフーちゃんのお喋り(具体的にはほとんど出てこないけれど)に耳をかたむける。 それがとても気持ちいい。

人間は自分の過去に記憶されている存在だ。 その土台の上、未来を了解し、自分自身のゲシュタルトを成立させて生きている。 けれど『ピアノの音』ではありのままの現在が、ただ清冽に流れていく。 それは、孫のフーちゃんが書いたお習字のことば「安心」と呼ぶにふさわしい世界だ。

本棚で死蔵されていた庄野潤三集。今年中にはひも解かれ愛読書となるだろう...たぶん。 まだ海中に沈んではいるけれど、ブイはくくりつけてある。いつでも机上に引き揚げられるように。
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by thatness | 2005-02-06 15:25 | 書物
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