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『そっと耳を澄ませば』三宮麻由子

昨年の冬、書店で偶然みつけた本である。
第一印象は、平凡なタイトルだな...ということ。 けれど、装幀の写真の上にあしらわれているリズミカルな円や線のデザインには見覚えがある。 一昨年、惜しくも亡くなられた作曲家にしてサウンドスケープの提唱者、吉村弘さんの図形楽譜であった。

思わず本を手に取り、活字に目を走らせる。

著者の三宮麻由子さんはアーチストでも、音楽家でもなかった。 東京の外資系通信社に勤務し、 翻訳の仕事をされているらしい。 内容は、参加している句会やバードウオッチング、山歩き、アメリカ留学。 日々の生活の中で拾い集めた音や季節の気配、身辺雑記を書き連ねたいわゆる歳時記であるけれど、 外界にのばしたアンテナの感度がものすごく高い。
たとえば、雨。梅雨のどしゃぶりの日、彼女は傘の内側に掌を当ててみる。 すると掌に「妖精たちが宝石をばらまいたような」まるい雨粒の感触を感じるという。 雨が水の粒であるということは凡夫にも理解できるが、それを体感できるとはかんがえられないし、 その感触を楽しもうなどとという発想などまったく浮かばない。 しかもその感触は、彼女によれば梅雨時の雨にだけ可能で、 夏の夕立は雨足が激しすぎて雨粒がすぐにつぶれる、 秋や冬の雨粒は風にあおられて傘にまっすぐに落ちてこないのだという。 「空が魔法の箱になって、恐ろしい雨をえもいわれぬ滴(しずく)の精に瞬間させる瞬間」。 それが彼女にとっての梅雨なのである。

この独創的で、きらめくような季節感は何だろう。 天賦の才としか言いようがないとしても、その正体は何なのだろう。 書店で斜め読みしているとき、文章に「晴眼者」という言葉がしばしば出てくるのに気づき、 ようやく謎がとけてきた。

そう。三宮麻由子さんは視力障害者なのである。 読書は点字、書き物はパソコンの画面読み取りソフト、外出には白丈(はくじょう)がかかせない。 晴眼者(という言葉の存在を、この本で初めて知りました...恥ずかしながら) が無意味なノイズとして無視する街の喧騒に耳をかたむけ、 風向き、気温や湿度にも気を配りながら、外を歩かなければならない。仕事も同じ。 しかし、彼女が不幸にして放り込まれた世界は絶望の闇ではなかったようだ。 というより、 むしろ光が無いゆえに見えてくるこの世界の豊かさがある。夜空に散らばる星々にまったく新しい線を引き、 自由奔放に星座を描いてみるような、 世界を日々発見するよろこびにあふれている。

もちろんこの世の中、マイノリティの方々にとってはまだまだ不便な社会。 盲目であることは生活に不便はともなうが、 三宮さんによると晴眼者が想像するような機能の欠落した世界ではないのだという。 そのことを彼女は、盲人に意識の闇はあるが、光の闇はないといういい方で表現する。 そもそも俗に障害者というが、それは誤りで社会の側に障害がある、というのが正しいはず。 ハンググライダーで鳥のように空を飛べる人がいるように、音と触覚だけをたよりに世界を鮮やかに知覚する人がいる。 それと同じように、世界にはさまざまな見え方があり、 その世界を生きる人からの贈り物としてこの本は読まれるべきなのだろう。

どのページを開いても宝石のような言葉があふれてくるのだが、 とりわけはっとさせられたのが、次のエピソード。小学校の頃、理科の授業。 動物を学習するためにネズミやネコなどさまざまな剥製に触れたときに、彼女はこんな印象を持ったという。

「剥製はもちろんどれも硬くて動かない。どんなにフワフワな毛が復元されていても、 生きているときの表情が理解できなかったせいか、私にはそれが動物だという実感がほとんどなかった。 剥製とは何か、頭ではわかっていても、硬いぬいぐるみみたいなものと、 温かくてすぐに手から逃げていってしまうネコとかウサギとが、 どうしても結びつかなかった」(「モグラとの遭遇」)

われわれ晴眼者は、剥製を見ても(触れても)、こういう印象は持てないのではないか。 「これは何ですか」と訊かれてもまず間違いなく「ネズミ、ネコ」と答えるに違いない。 先んじて「剥製です」と言えることはないだろう。剥製が生命を奪われたモノという事実よりも、 元はネズミやネコであったという知識のほうが先んじてしまうに違いないのだ。 われわれにとって生命とは、 口でどんなに偉そうなことを言っても、 もはや生々しい体験ではなくなっている。頭でおぼえた観念になっている。

ここではっきりとわかった。
そっと「耳」を澄まして、彼女がとらえるのは、なによりまず生命の囁き、または自分が生きていることを自覚させてくれる「音」なのだ。

カナダの作曲家で『世界の調律』の著者、マリー・シェイファーは騒音を定義して「われわれが無視することをおぼえた音」といった。 なぜなら、耳は目のように閉じることができない。不要な音は無視することができるだけで、それが騒音と呼ばれるわけだ。 心地よい音が欲しいときは、音楽を聴いてそのなかに閉じこもればいい。 かくして、騒音まみれのわれわれ先進国都市生活者は、騒音を無視する代償として、 音をつうじて得られるはずの豊かな感受性、生命に共感する力を失ってしまったのである。 われわれの耳は開いているが、ほんとうは閉じている。

吉村弘さん、マリー・シェイファーらは、環境音楽の作曲、 サウンドスケープの設計という仕事をつうじて、 耳本来の力を取り戻そうと努力した音楽家だ。 しかし三宮さんの本を読んでいると、「世界の調律」がなにも作曲家にしか立ち入れない聖域ではないことをおしえられた。 われわれは、傘をとおして雨粒に触れたわけでもなく、動物の剥製に触れたわけでもない。 ただ書かれた言葉を読んだにすぎないという事実に、もっとおどろく必要がある。 言葉でなにかを拵えようとするものにとって、 ほんとうの希望がぎっしり詰まっている本。 それが『そっと耳を澄ませば』である。

5年に1冊出会えるかどうかの素晴らしい本。
超オススメなので、皆さま是非書店で手に取ってみてください。
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by thatness | 2005-03-22 15:27 | 書物
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