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カテゴリ:音楽_classic( 10 )


ベートーヴェン、傑作ではないけれど...。

ベートーヴェンは、その生涯に32曲のピアノソナタを遺した。

創作活動は、音楽家として独り立ちした20代前半から最晩年まで、ほぼコンスタントに続けられていて、 (よくいわれるように)ベートーヴェンの音楽家としての成長過程がわかって面白い。 モーツアルトの場合だと、少年時代に書いた第1番から最後の第18番まで、その天才的な音楽風景はほとんど変化がない。 むろん時代によって作風の変化、成長はあるだろうけど、モーツアルトのみに許されたインスピレーションはどの曲にも淀みなく流れている。
けれどベートーヴェンの場合は、初期、中期、後期と試行錯誤の連続である。 過渡的な作品が数曲つづき、その後どか〜んと傑作を書くが、栄光にとどまらずさらに試行錯誤をしてつぎの頂点を模索する。 その軌跡は、あたかも螺旋階段を昇っていくかが如くである。

最近寝しなに、楽聖が20代半ばに書いた作品10、3つのピアノソナタを聴いている。番号でいうと5番、6番、7番。 モーツアルトを聴いて完全にリラックスするのもいいけれど、適度の緊張感が欲しいよなあというとき、これらの佳曲が実にしっくりくる。
「悲愴」「月光」「熱情」。「テンペスト」「ワルトシュタイン」「告別」。以上、ふたつの3大ソナタに、最晩年の3つのソナタ。 毎日聴いても飽きない傑作だけれど、試行錯誤の時期書かれた過渡的な作品もけっこう面白い。

ベートーヴェンがピアノソナタの分野で「ネクスト」を試行するとき、石井宏さんによるとふたつの方向性がみられるという (バックハウスのCDのライナーノーツ)。ひとつは音楽の規模そのものの拡大で、もうひとつは、規模は古典的な範疇にとどまりつつ内容の新しさを追求したものである。 ハイドンに献呈した作品2の3つのソナタ(1番〜3番)につづく4番のソナタは、規模の拡大を試行した典型的なもので、演奏には約30分かかる。 演奏時間がこんなにかかるソナタは当時まだなかった。いったい誰が聴いたんだろう、と思う。 で、もうひとつの試行にあたるのが作品10の3曲である。 演奏時間は3曲ともおおよそ20分弱だが、中期のベートーヴェンを予感させる情熱的なフレーズ、幻想的な楽想が肩のこらない感じで散りばめられてる。 3曲のうちどれか1曲、じっくり聴いてもいいし、本を読みながら3曲を通して聞き流すのもいい。どちらでもエネルギーを得られる。

好きな演奏は、ダニエル・バレンボイム。くせがなく、聴き易い。

ぼくはベートーヴェンのピアノソナタ全曲をまずバックハウスのディスクで聴いたのだけど、 「熱情」や「ワルトシュタイン」があまりに立派で、過渡的な佳曲は退屈であまり面白くなかった。 つぎにそろえたケンプ盤は歌心にあふれる名演で、印象は好転したもののリズムが重くいまいち。バレンボイムのディスクに出会って、 ようやく愉しめるようになった。
彼の演奏はほんとうに不思議。31曲の中には、どうひいき目に見ても退屈な楽想のソナタもある。 しかしバレンボイムの演奏で聴くと、どの曲もすっと自然に耳にはいってくる。あまりの聞き易さに面食らい、 凡作に厚化粧をほどこしてるだけではないかと疑ったくらいだ。正直、真偽のほどはいまも結論が出ないが、全曲をじっくり楽しむには一押しである。

2番手はグレン・グールド。非常に面白いけど、純粋にベートーヴェンを楽しもうと思って手が出すとやけどする。 アレグロやプレストは猛烈に高速で、アダージョはノン・レガートで押し切る。 天才的なインスピレーションの素晴らしさには脱帽だが、寝しなに聞き流せるような代物ではありません...鼻歌付きだし...笑。 3番手はシュナーベル。ぼくはこの1930年代録音の名演がいちばん好きだが、やはり寝しなのBGMには向かない。
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by thatness | 2006-02-26 21:17 | 音楽_classic

ベイヌム指揮コンセルトヘボウ管、渾身のブラームス

記憶。

それがどんなに鮮明なものでも、ちっとも正確ではない場合がある。 人間の脳は、ニコンのレンズで撮ったような鮮明な光景でも、時の経過と共に勝手に編集してフィクションを作り上げてしまうことがあるようだ。

小学生の低学年か、幼稚園の頃。父がシンフォニーのレコードを聴かせてくれたことがあった。 ドヴォルザークか、ベートーヴェンか...全然わからないけどドイチェ・グラモフォンの黄色いロゴはたしかにあった。 演奏はやっぱりカラヤンとベルリンフィルだったのかな。 いま、わが家に残っている父の古いレコードというとそればっかりだから、それはまあ、間違いない。

記憶がでたらめなのは、映像である。音ではなくて...。映像なのである。

「本当はこんなことしちゃいかんのだが...」といいつつ、 父はテレビ(当時はまだモノクロだった)の入力端子にプレーヤーからのコードをつなぎ、音楽を再生して見せた。 するとスピーカーから音が出てきただけでなく、なんとブラウン管にも、 ヨーロッパの大聖堂で演奏する指揮者とオーケストラの姿が映し出されたのである。 コントラストが強くてモノクロのシルエットしか見えなかったのだけれど、両腕をはげしく上下させて指揮をする指揮者と、 外光で浮き彫りのようになったようなステンドグラスの光がはっきりと見えた。

子どもなりに理解にしたのは、レコードプレーヤーをテレビと接続すると、運良く演奏の映像が映し出されるときがある、 しかしやりすぎるとテレビが壊れてしまうので、いつも見せられるものじゃない...ということであった。 その後、ぼくは父に何度かレコードを「見せて」とせがんだようである。何度かトライしてもらったけれど、テレビのスピーカーから音だけが流れ、 食い入るように見つめたブラウン管には何も映し出されなかった、ような気がする。

これはいったい何なのだろうか...笑。

父がテレビとレコードプレーヤーを接続して音楽を再生したことは、あったかも知れない。 そのときたまたま流れたモノクロのシルエット映像を、演奏風景と勘違いしたこともありえない話じゃない。 けれど、すべての事柄はばらばらに起こったに過ぎず、ずっと後になって都合よくモンタージュしただけかも知れない。 あるいは(実はこれは一番ありそうなことだが)、友達にレコードから映像が見えたといいかげんなことを言って、 ほらがいつのまにやらリアルな記憶として脳に焼きついてしまったのかも知れない。

書きながら思い出したのだが、ぼくは子どものころ、かなりのほら吹きだった。 懐中電灯の光が真横から飛び出すのが見えるとか、走っている列車の窓の向こうの人の顔が見えるとか、空飛ぶ円盤を見たとか...。 嘘をついたのではない。見えたらいいな、という気分がついつい「見えた」になってしまう。 勉強も体育もダメなぼくは、そういう荒唐無稽な特技?で友達の注目を集めたかったのだ。 こういういい加減なことをやってきたせいか、いまでも人の話がきちんと聞けなかったり、物事を正確に報告できなかったり、いろいろと苦労している。

記憶は、音声よりも映像が残りやすく、古ければ古いほどその傾向は強い。 どなたも自分のなかで一番古い記憶というものを持っている(認定している)と思うが、音や触覚よりも圧倒的に映像なのではないかと思う。 しかし思うに、視覚的な記憶は鮮明だが嘘が多い。かんたんに捏造、編集が出来てしまう。ぼくのほら吹き記憶もほとんど映像記憶である。 しかし音声の場合はなかなかそうはいかない。かなり古い記憶でも正確に残るのではないか。

昨年、エドワルド・ファン・ベイヌムがアムステルダム・コンセルトヘボウ管を指揮して録音(1958年)した、 ブラームスの交響曲第1番を何度も何度も聴いた。もちろんいまでもよく聴いている。素晴らしいブラームスである。

何がいいのかというと、昨今のオーケストラからは消滅してしまったどっしりとして、男性的な存在感あふれる響きがたっぷりと聴けるからである。 ディスクをプレーヤーに装填し、あのぶわーっというハーモニーがスピーカーからあふれ出したとき、 これは父がテレビのスピーカーから流してくれたあのオーケストラサウンドだと確信した。
ウイーンフィルの女性的なしなやかさも、デジタル時代のカラヤンが作ったベルリンフィルのメタリックな光沢もないが、 ロダンの彫刻を見るような重量感と生命力にあふれている。 あの時、テレビから聴かされた演奏がまさにこれだった、というとまたほら吹きになってしまうけれど、 父の世代がリアルタイムで聴いていたオーケストラサウンドは間違いなくこれである。

このサウンドに天然色は似合わない。あのときテレビで見た(と思い込んでいる)、コントラストの強いモノクロのシルエット映像こそがふさわしい。 もし本当にレコードに映像が吹き込まれていたとしても、あのモノクロ映像以外にイメージすることはむずかしい。

ベイヌムは、メンゲルベルクがナチへの協力容疑で音楽界から追放された後、シェフを失ったコンセルトヘボウ管を立て直した指揮者として知られている。 その音楽は、浪漫的で陶酔的だったメンゲルベルクとはまったく反対の、近代的で理性的な解釈が特徴といわれ、 ブラームスでもまさにそういう音楽を聴かせてくれる。しかし、理性的な解釈でも音楽が無味乾燥にならず生命力にあふれているのは、 やはり往時のコンセルトヘボウの力量だろうか。安易な運指やあつかいやすい楽器にたよらず、 愚直に伝統を守りつづけた多国籍化する前のオーケストラの響き。 この録音は、多少糸が乱れようとも、心をあわせて伝統の音を出していたオーケストラと才能ある指揮者との歴史的遺産といっていいと思う。 ベイヌムはこの録音の翌年、心臓発作に倒れ58歳の若さでで急逝してしまうので、その意味でも高い価値がある。

昨今のオーケストラは、団員の多国籍化、商業主義の台頭でサウンドがグローバル化してしまったと、よくいわれる。 しかしクラシック音楽はもともと、時代の流れにのってサウンドや解釈がどんどん変化していくという宿命を背負っている。 クラシック音楽の世界は、音符から芸術を引き出すことができる才能には(日本や東洋の伝統芸能と比較してみると格段に)広く門戸が開かれている。 才能ある者には、自由が保証されている世界。
しかしそれ故、音はどんどん変化していく。 モーツアルトやベートーヴェンが聴いたオーケストラサウンドはどのようなものだったのか、いかに古楽器の研究が進もうと永遠にわかることはないだろう。 映像機器、録音機器の進歩が進んでも、オーケストラサウンドの生々流転を止めることはできない。

記憶はときに明晰で、ときに曖昧なものではあるが、いずれにしろ生きた人間のなかにしか宿ることができない。 記憶を生み出すのは、この世界に時間というものが存在するからだ。音楽とは、目に見えない時間に色彩をつけるようなものかもしれない。 煙に色をつけて空に流せば、風の姿が見えるように。
よくよく考えてみると、人間もまたこの世界では音楽のように存在しているといえないだろうか。 それぞれの人間がそれぞれの色彩に染め抜かれながら、有限の存在を背負いながら、時間のなかで「人生している」と...。

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by thatness | 2006-02-12 13:01 | 音楽_classic

モーツアルト生誕250周年

『モーツアルト・マイベスト10』

歌劇『ドン・ジョヴァンニ』 K.527
カール・ベーム指揮ウイーン国立歌劇場管

歌劇『魔笛』 K.620
サー・チャールズ・マッケラス指揮スコティッシュ室内管

交響曲第25番ト短調 K.183
イシュトヴァン・ケルテス指揮ウイーンフィル

交響曲第40番ト短調 K.550
フランス・ブリュッヘン指揮18世紀オーケストラ

ピアノ協奏曲27番変ロ長調 K.595
ルドルフ・ゼルキン、アバド指揮ロンドン響

クラリネット協奏曲イ長調 K622
カール・ライスター、カラヤン指揮ベルリンフィル

セレナードト長調「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」K.525
シャンドール・ヴェーグ指揮ザルツブルグ・モーツアルティウム管

弦楽四重奏曲第15番ニ短調 K.421「ハイドン・セット」
クイケン四重奏団

クラリネット五重奏曲イ長調 K.581
アルフレッド・プリンツ、ウイーン室内合奏団

「レクイエム」ニ短調 K626
カルロ・マリア・ジュリーニ指揮フィルハーモニア管

++

『モーツアルト・マイレコメンド10』

歌劇『後宮からの誘拐』 K.384
オイゲン・ヨッフム指揮バイエルン国立管

交響曲第29番イ長調 K.201
イシュトヴァン・ケルテス指揮ウイーンフィル

ホルン協奏曲第1番ニ長調 K.412/514
デニス・ブレイン、カラヤン指揮フィルハーモニア管

セレナード変ロ長調 K.361「グラン・パルティータ」
ウイルヘルム・フルトヴェングラー指揮ベルリンフィル

セレナードハ短調 K.388「ナハトムジーク」
ハインツ・ホリガー、ヘルマン・バウマン、その他

ディヴェルティメント変ロ長調 K.137
シャンドール・ヴェーグ指揮ザルツブルグ・モーツアルティウム管

クラリネット三重奏曲 変ホ長調 K.498「ケーゲルシュタット」
Jhon Denman,The Flesch Quartet

ホルン五重奏曲変ホ長調 K.407
ベルリン・ゾリステン

モテット「アヴェ・ヴェルム・コルプス」 K.618
トン・コープマン指揮アムステルダム・バロック管、合唱団

「キリエ」ニ短調 K341
フィリップ・ヘレヴェッヘ指揮 ラ・シャペル・ロワイヤル管、合唱団


本日、2006年1月27日、ウォルフガング・アマデウス・モーツアルト生誕250周年の日を迎えました。 たんなる自己満足に過ぎないとは知りつつも、大好きな曲をピックアップしてみました。
『モーツアルト・マイベスト10』は、有名曲の中からおすすめの傑作を、『モーツアルト・マイレコメンド10』は、 やはり名曲の中から(裏ベスト的に)個人的にとくに好きな曲を...。ご笑覧下さい。

モーツアルトは35年の生涯に650曲以上の音楽を残しましたが、そのうち100曲程度は不滅の傑作といっていいのではないかと思います。 ここでご紹介した20曲は、その傑作群のほんの一部ということになります。

ちなみに、生誕200周年は50年前の1956年。あのデニス・ブレインは、カラヤンと組み「至宝」と呼んでも差しつかえないホルン協奏曲4曲の録音を残しました。 21世紀の生誕250周年、どんな演奏が残されるのでしょうか。
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by thatness | 2006-01-27 22:52 | 音楽_classic

マルタ・アルゲリッチ、スペシャルコンサート

クラシックを本格的に聴きはじめたころ、ホロビッツもアラウもリヒテルも現役だった。 引退はしていたがケンプもまだ存命。エッシェンバッハやアシュケナージはまだ指揮台に立ったことはなく、 メジャーレーベルを支える若手の人気ピアニストだった。あれから20数年、世代交代は進み、 人気ピアニストの顔ぶれはすっかり変わってしまったけれど、 アルゲリッチ、ポリーニ、グールドの3人は未だにこの世界の横綱である。世界中で、彼らの人気はまったく揺らぐところがない。

コンサートそのものを完全に否定していた故グールドは別にして、 ポリーニとアルゲリッチはいまでも頻繁に来日して演奏活動をしている。
ポリーニは首都圏で現代音楽を中心にしたイヴェントを企画したり、ソロコンサートも開いているが、チケットプライスは高く、 入手も困難。敷居も高い。アルゲリッチも別府アルゲリッチ音楽祭のおかげで毎年来日はするものの、 70年代から積極的だった室内楽に活動をシフトさせ、ソロコンサートをほとんど開かなくなった。 唯一の例外は95年に別府のコンサートで、その後は皆無ではないかと思う。本拠地のヨーロッパでも、 おそらく10年に一度、あるかないか...ではないのか。

++

高校生のころ、お小遣いをこつこつためては彼らのレコードを集めていた。 アルゲリッチのショパンやラベル、ポリーニのウエーベルンやシェーンベルグ、それにグールドのバッハなど。 それこそ擦り切れるように聴き、ペダルのきしむ音、息づかい、鼻歌にいたるノイズまでもぼくの記憶に残っている。 思い入れは深いが、大ピアニストである彼らの演奏を生で聴けるなんて、夢にも思っていなかった。

ところがなんと、アルゲリッチが別府の音楽祭の共催イヴェントとして、わがS市でコンサートを開くという。 腰を抜かした。子分の若手ピアニストとの共演なのでソロではないが、彼女の演奏を弦楽器や管楽器なしでたっぷりと聴ける。 チケットプライスも、この大ピアニストにしてはきわめて良心的な値段。 アルカスSASEBOの企画力を賞賛すべきか、スポンサーのジャパネットたかたとプレナス(ほっかほか亭)に感謝すべきか...。 とにかくチケットを買った。

5月13日、金曜日。その日はやって来たが、 (気分屋でキャンセルも少なくない)アルゲリッチはほんとうに来てくれるのか?  期待と不安で最前列やや左寄りのベストポジションの席にて開演を待つ。

一曲目はフリードリヒ・グルダの「前奏曲とフーガ」である。 グルダの曲なので、アルゲリッチがソロで弾いてくれるのではないかと期待したのだけれど、 ステージ下手のドアから出てきたのは子分のアレクサンドル・グルニングというピアニストであった。
グルニングは1973年、ベルギー生まれ。インドネシア人とポーランド人を両親に持つということで、 エスニックな顔立ちがなかなかのイケメンである。ただ、プロとしてのキャリアはほとんどなくて、 別府や札幌のPMFに参加しつつデビューの機会を狙っている、という感じだろうか。

グルダの曲は、緊張感があってなかなかよかった。楽想はまったくのジャズ。それもコンテンポラリーな感じの、 うまい言葉が見つからないのであえていうが、いかにも(グルダと共演したこともある)チック・コリアが書きそうな曲。 楽しめたが、「前奏曲とフーガ」というタイトル、 そもそも「前奏曲とフーガ」というコンセプトでジャズを書くという試みには抵抗感を感じた。 ビートルズやコルトレーンを「芸術家」として持ち上げたがる文化人臭さみたいな、 無意識の高慢さがなんとなく感じられるのである。ようするに、リスクを背負わない折衷主義。

つぎの曲は、やはりグルニングのソロによるベートーヴェンの「アパッショナータ」ソナタである。 これは...感動した。何度も何度もいろんなピアニストで聴いてきた曲なのに、生演奏を集中して聴くと、 ベートーヴェンの凄さに打ちのめされてしまう。大胆な楽想や構成。 こんなにも斬新な音楽を「クラシック」などと呼んでいいのだろうか...なんて。 「アパッショナータ」ソナタの前では、グルダの曲はまったく色褪せてしまった。
グルニングの演奏は、やや軽量級。どっしりした構成感というものは足りないものの、 そのかわり個性的なリズムと明るいタッチがあり、色彩感あふれる音で聴衆を惹きつける。 第2楽章はかなりテンポを揺らしながらテーマを弾き、 その後の変奏も微妙にリズムがふらつくようなシンコペーションで音楽を走らせる。 この楽章には、苦悩の芸術家が(レンブラントの絵のように)夜の闇に内省するというようなイメージを持っていたのだけど、 グルニングの演奏で聴くと、親しい友人同士が深夜酒を酌み交わし話し込んでいるような、 どことなく開放的なイメージを得た。内向や孤独に走らない、外向的な(しかし饒舌にならない) ベートーヴェンといったらいいだろうか。テクニック、スタインウエイのサウンドは申し分なく、 演奏後には「ブラボー」の声も会場から聞こえた。

3曲目でようやくアルゲリッチが登場する。
スタインウエイが2台並べられ、下手のドアが開くとアルゲリッチはグルニングと雑談をしながらステージに歩いていきた。 アルゲリッチは完全にリラックスしている。ぼくのほんとうに目の前、 5メートルと離れていない位置に腰掛けたのだけど、無駄な緊張がなく、 演奏にのぞむというよりランチでもとりそうな雰囲気だ。大家の余裕なのだろうか。

演奏はすぐにはじまった。曲はチャイコフスキーの組曲「くるみ割り人形」(2台ピアノ版)である。 ぼくはロシアの作曲家の音楽をあまり好まないし、よく知らない。 それでも「くるみ割り人形」の管弦楽曲版は昔アンセルメのレコードでよく聴いていたので、 なじみ深くリラックスして楽しめるのではないかと思っていた。 ところが、小序曲の最初の一音が打鍵された瞬間、頭蓋骨のてっぺんにくさびを打ち込まれたような衝撃を受けた。 音が、音が...。こんなに美しいピアノの音はいままで聴いたことがなかった。 組曲「くるみ割り人形」には、チャイコフスキーらしい甘いメロディがふんだんに出てくるが、 交響曲にありがちな狂ったようなメロディのユニゾン進行もなく、躁鬱病すら連想させる落差の激しい楽想もない。 肩のこらない小品集...のはずなのだが、一音一音の美しさ、強い存在感、繊細さに息が詰まりそうになってしまった。 高校生のころ、部活で弓道をやっていたのだけど、呼吸を止め、弓を引き絞って的に意識を集中させたときのように、 音に全神経が集中する。しかし息が詰まって追いつめられるようなことはなく、音楽に集中すればするほど、 愛くるしくチャーミングな「くるみ割り人形」が心のなかに広がっていく...。奇跡、奇跡である。

ほかのひとはどう聴いたかわからない。演奏中も(高校生がやたら多かった)会場はざわついていたし、 隣の席の若い女性は退屈そうに下を向いたままだった。ただ、ぼくは「花のワルツ」が終わり、 アルゲリッチとグルニングが引き上げたあとしばらく席を立つことができなかった。いわゆる通俗的で、 それほど指の技術も(おそらく)いらない曲でも、これだけの感性と経験をもった演奏家の手にかかると、 途方もない音楽になるのだ。谷川俊太郎さんが、平易な言葉しか使わないのに素晴らしい詩を書くのと同じ。

休憩をはさんで、最後に用意されたプログラムはプロコフィエフのバレエ曲「シンデレラ」からの組曲(2台ピアノ版)。 日本初演だそうである。アルゲリッチは、ミハエル・プレトニョフの編曲・共演でこの曲を録音しているようだが、 今回のプログラムもたぶん同じものなんだろう。

プロコフィエフの音楽は、いくつかのピアノソナタを知っているだけでほとんど聴いたことがない。 「シンデレラ」も全然知らない曲ではあったけれど、迫力満点の演奏でまったく飽きることがなかった。 愛くるしく、甘い音楽で聴かせる「くるみ割り人形」と異なり、 この曲は演奏家の技量をはかる試金石といってもいいようなハイ・レベルな音楽であったと思う。 譜めくりのお姉さんもしばしば演奏についていけなくて、タイミングを何度もはずしていたし...。
グルニングの打鍵も素晴らしかったが、アルゲリッチもまた、還暦を過ぎているにもかかわらずテクニックはまったく落ちていない。 背筋を自然に伸ばし、肘を柔らかくして、卵形にまるめた手のひらからやわらかく指を鍵盤に落していく。 基本通りのまったく無駄のない動き。 内田光子のようにやたらとのけぞったり、見苦しい恍惚(あるいは苦悶の)表情を見せることもない。 なのにスタインウエイからは、プロコフィエフ特有の鋼鉄のように強靱なサウンドが、 しなやかさが失われることなく放たれつづける。
完全無比のテクニックを誇ったポリーニでさえ、昨今はミスタッチが少なくないと聞く。 ぼくはアルゲリッチの指を食い入るように見つづけていた。彼女はどんなに速いパッセージでも、 ミリ単位で自分の指をコントロールしている。あの『ラベル名演集』での「夜のガスパール」、 とくに一曲目の「オンディーヌ」の驚異的なサウンドの秘密がようやくわかった(ような気がした)。

アルゲリッチは、自由奔放で、感性の演奏家とよく言われる。 眼光紙背に徹する譜読みで音楽を掌握するのではなく、直感的、即興的インスピレーションで音楽と共感し、演奏を繰りひろげる。 しかし、彼女の最高の天分は、運動神経なのではないか。 決しておおげさな表現ではなく、鳥の羽根一枚あるかないかの感覚で、打鍵のコントロールを自由にできる。 その微細なサウンドのボキャブラリーが、豊穣な音楽を生み出す可能性を開き、インスピレーションを養っているのではないか。

プロコフィエフが終わり、アンコールではついにソロが...と期待したが、最後はグルニングとの連弾であった。 (1台のピアノの連弾するときは、椅子を縦に並べるのですね。初めて知りました) 曲はラベルの『マ・メール・ロア』から「パゴダの女王レドロネット」と「 美女と野獣の対話」の2曲。 管弦楽組曲版はもちろん、ピアノ連弾曲版も大好きな曲。 6才と10才の子供のための曲として書かれたものだが、 シンプルな書法が透明感あふれるメランコリーをかもし出す名曲である。 アルゲリッチとグルニングは、最後のさいごまで手綱をゆるめることなく、素晴らしい演奏を披露してくれた。 天にも昇るような気持ちとは、このことをいうのだろうか。しみじみと噛みしめるように耳を傾けた。

来年はアルゲリッチ音楽祭に行ってみるのもいいかな。 願わくはラベルのト長調の協奏曲でもやってくれれば最高である。 グルニングにも、ぜひとも大成してもらいたいと思う。 その折りには、このホールをひとりで満席にして、聴衆を興奮させてもらいたいものである。

++
マルタ・アルゲリッチ、スペシャルコンサート
2005年5月13日・金曜日
アルカスSASEBO大ホール

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by thatness | 2005-05-31 15:36 | 音楽_classic

フェルメール・クァルテットの素晴らしい世界

朝日新聞の朝刊で、フェルメール・クァルテットが来日公演中であることを知った。 東京の紀尾井ホールのオープン10周年記念イベントにに、 アルバン・ベルク四重奏団、 ジュリアード四重奏団とともに招かれ、各地で公演しているのである。 あわててスケジュールをネットで調べたのだけど、 近場での公演はないようである。残念、残念、残念。

フェルメール・クァルテットのことを知ったのは、いまから6年前ほど前だろうか。 ベートーヴェンの弦楽四重奏曲全集が一枚千円のバジェット盤で再発されてから。 たまたま安かったのと、『レコード芸術』誌の評が(あつかいは小さかったが)ほぼ絶賛の評価で興味がわき、試しに一枚、 15番のディスクを買いすっかり魅了されてしまった。 演奏は昨今の四重奏団らしく高い集中力を保ち、音の線もよく分離する。 しかし、 音色はとてもまろやかでメタリックなところが一切ない。そのぶんスピード感や大胆さには欠けるかもしれないが、 優しさと繊細さがあふれ、とてもエモーショナル。テンポも自然で、 ベートーヴェンが天国から指示を出しているのではないかと思うほど。 それまで所有していたアルバン・ベルク四重奏団の旧盤をすべて処分して、フェルメール・クァルテットで全曲を揃えた。

ベートーヴェンが最晩年に書いた弦楽四重奏曲は、クラシック音楽の最高到達点といわれている。 難しいことはわからないが、 たしかに15番の第3楽章「病癒えたものの神に捧げる感謝の歌」をはじめ、 各曲に残されている精神性の深い緩徐楽章は素晴らしい。 気分が衰弱した時などにじっくり聞くと、 冷たい冬の大気が陽の光で暖められるように、魂を癒してくれる。 ぼくにとっては、 人生のミラクル・ドラッグといってもいいくらいの存在で、 何があってもフェルメール・クァルテットのディスクを手放すことはないだろう。

朝日新聞の(4月23日の紀尾井ホール)記事から。

「アルバン・ベルク四重奏団の場合、速く、大きい弓使いで豊かな倍音を響かせる傾向があるが、 このフェルメール・クァルテットは、いずれもあまり弓を走らせすぎず、しつかり鳴っている実音が響き合う。 そして、第1バイオリンがソリスティクにならず、完全にアンサンブルに溶け込んでいるのも特徴。 各声部の受け渡しの部分は、非常に丁寧で、結果として見事に求心力のあるアンサンブルになる」(伊東信宏氏・朝日新聞西部版4月29日)

なるほど。そうだったのか、と思う。
どうりで、音に透明感があって、楽器がきちんと鳴っているような気がするわけだ。 アルバン・ベルク四重奏団とは、奏法だけでなくおそらくピッチもかなり違うのだろう。 曲の解釈云々以前に、アンサンブルのコンセプトがかなり異なっていたのだ。

ぼくはアルバン・ベルク四重奏団の実演を地元のホール (紀尾井ホールをやや小ぶりにした感じのシューボックス型のいいホールです) で聞いたことがある。 ベートーヴェンの14番は素晴らしかった。リーダーのギュンター・ピヒラー氏はじめ、 各奏者は全身をはげしく動かしつつ艶やかな音を太陽のように放射する。
四人の奏者が演奏しているというより、ホール全体がひとつの楽器となり、 音の胎内で遊んでいるような感覚があったと思う。 同じホール。別の機会に、フェルメール・クァルテットの弟子筋にあたる上海クァルテットのコンサートを聴いたときは、 まったく違う音楽を聞かせてくれた。それはまさに前述の朝日新聞の記事にあるような、 第1ヴァイオリンがソリスティックにならない、 繊細で求心力のあるアンサンブルだったのである。4人の演奏家がたがいの音をしっかりと聞きあい、 息をあわせて弓を弾いているのが手に取るようにわかる。アンサンブルの原点をみるようなコンサートであったと記憶している。

アルバン・ベルク四重奏団の演奏スタイルは、昨今の弦楽四重奏演奏のひとつの世界標準になっている。 緻密で切れ味のよい刃物をふるったような、シャープな音。第1ヴァイオリンが明確なリーダシップを保持し、 スピード感と雄大なスケールを併せ持った演奏を展開する。つまらなくはないが、 ぼくはやはりフェルメール・クァルテット(あるいは上海クァルテットのような)のような、 全体のアンサンブル重視、エモーショナルで、まろやかな演奏のほうが好きである。すくなくとも、現役の弦楽四重奏団ではベスト。

紀尾井ホールの今回の10周年記念イベントには「世界のトップスリーを聴く」とのコピーがついている。 まあ...まっとうな選択ではあるけど、フェルメール・クァルテットは他のふたつの団体と異なり、 一般的な知名度はまだまだ低い。 メジャーレーベルとの契約がないので、録音が少なくマスコミの話題にあがりにくいのだ。 現在、かろうじて入手可能なディスクは前述したベートーヴェンの全集のバジェット盤 (AmazonとTOWERのサイトに在庫あり)の他、 数点に過ぎない。 ナクソスからバルトークの全集がリリースされる予定があるときくが、 信じられないことにハイドンの「エルディーディ四重奏曲集」、 モーツアルトの「ハイドンセット」の録音がまだないのである。 数多あるクラシックレーベルはいったい何をしているんだろうか...。未来の音楽愛好家のためにも録音をたくさん残して欲しい...。痛切に思う。
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by thatness | 2005-05-04 15:32 | 音楽_classic

グレン・グールドの「テイク1」

高橋悠治さんがピアノで演奏するバッハの『ゴールドベルグ変奏曲』。
昨年、福岡のタワーレコードで試聴し、(買わなかったけど)装飾音や独特のテンポの揺れなどに強く魅かれた。 やはりたいそう評判になっているようで、ディスクの売り上げもよく、コンサートは満員御礼とか。 地元のショップで注文したが、一週間待つのにまだ届かない。やはりアマゾンにすべきだったか。

入荷の連絡をじりじり待つあいだ、聴いていたのがお馴染みグレン・グールドのディスクなのであった。本日はその話。

グレン・グールドの『ゴールドベルグ変奏曲』の演奏は、よく知られている1955年録音のデビュー盤と、 最晩年の1981年録音盤(映像もリリースされたが、ディスクとほぼ同じテイク)の他に、実はもうひとつ存在する。 1959年のザルツブルグ音楽祭でのライブ音源である。これが実に実に、素晴らしい。すくなくともぼくには、 この演奏がいちばんしっくりくる。
音楽ファンならみんな知っているけど、グールドは1964年にコンサート・ドロップアウト宣言なるものをし、 聴衆を前にしての演奏活動を一切止めてしまった。 トップアーチストの常識外れの決断は世界中をおどろかせ、復帰を熱望する声は晩年まで絶えなかったが実現せず、 このライブ音源も、彼の死後ようやくリリースされたものである。

グールドがなぜ、コンサート活動を止め、レコーディングスタジオに閉じこもるようになったのか。 一発勝負のコンサートでは「テイク2がない」というのが彼の言い分である。 ミスタッチへの恐怖、数千人の聴衆を前にしての極度の緊張感に心身をさらして疲れ果てるよりも、 レコーディングスタジオで、アイデアの湧くかぎりのテイクを録り、テープを編集して最良の演奏を提供する。 アーチストにとっても、聴衆にとってもそれが最良の道だと彼は考えたのである。

しかし、このザルツブルグ音楽祭のライブ演奏を聴くと、彼のコンサート・ドロップアウトが、 やはり残念な決断だったかも知れないと思えてくる。コンサートにはたしかに「テイク2」はないが、唯一無比の「テイク1」がある。 というより、一度走りはじめたら最後まで突っ走るというのは、音楽の根本原理ではないのか。 ちょうど人の一生と同じように...。
グールドは自分のイデアの実現のために、テクノロジーの力を借りて、 音楽の根本原理にメスをいれようとしたのだろう。テクノロジーと演奏芸術を融合させ、 まったく新しい(ディスク、或いはビデオという名の)芸術ジャンルを立ち上げる。それが彼の描いた夢だったろう。

けれども、練りに練り上げた「テイク2」の成果を踏まえたうえで、 もう一度、唯一無比の「テイク1」のまな板にのせて料理してほしかった...というのがぼくの(あるいはおそらく、多くのグールドファンの) 見果てぬ夢でもあるのだ。
神経過敏なグールドにとって、コンサートのステージは針のむしろだったには違いないが、 1959年のライブ演奏を聴くと、彼には即興的なインスピレーション、 プレッシャーの中でポジティヴにテンションを高めていく才能にも恵まれていたことがわかる。

冒頭のアリアは、まったく素晴らしい。テンポは高速だが、ノーブル。深い癒しがあり、 1981年録音のアリアよりもずっといいと思う。その後の変奏曲も、天馬空を走るような超高速で音楽が流れるけれど、 驚くべきことにせかせかした感じが全然しない。これはいったい何なのだろう。 グールドは車の運転が好きで、愛車のリンカーンコンチネンタルでよくドライブしたそうだけど、 この演奏は、思春期の少年が風をきって走る自転車のようだ。 フランソワ・トリュフォーの短編映画『あこがれ』を思い出していただけるといい。グールドは音楽と一体化して、無心になっている。 このよどみない音楽の線が、果たしてスタジオで編集されたテイクで可能だろうか。疑問。

そもそも、グールドが考えていた「テイク2」の方法論は、彼が考えるほど斬新なものだったのか。 スタジオでいくつもテイクを録っていいところだけど繋ぎあわせるやり方は、特にオーケストラ曲のレコーディングでは当たり前である。 オペラのような長丁場の音楽ならいざ知らず、30分から50分程度の曲ならば、 一気に演奏した方がいいテイクが録音できるんじゃないのか?

グレン・グールド。生で聴きたかった、なんて無茶なことはいわない。
せめて、レコーディングのためのコンサートを開いてくれたらよかった。 テレビやラジオのための生演奏はけっこうやっていたのだし...。それらの音源は現在ほとんどCD化されているが、 ほとんどがモノラルで音質はよくないのである。
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by thatness | 2005-03-12 15:26 | 音楽_classic

グレン・グールドの「テイク1」

高橋悠治さんがピアノで演奏するバッハの『ゴールドベルグ変奏曲』。
昨年、福岡のタワーレコードで試聴し、(買わなかったけど)装飾音や独特のテンポの揺れなどに強く魅かれた。 やはりたいそう評判になっているようで、ディスクの売り上げもよく、コンサートは満員御礼とか。 地元のショップで注文したが、一週間待つのにまだ届かない。やはりアマゾンにすべきだったか。

入荷の連絡をじりじり待つあいだ、聴いていたのがお馴染みグレン・グールドのディスクなのであった。本日はその話。

グレン・グールドの『ゴールドベルグ変奏曲』の演奏は、よく知られている1955年録音のデビュー盤と、 最晩年の1981年録音盤(映像もリリースされたが、ディスクとほぼ同じテイク)の他に、実はもうひとつ存在する。 1959年のザルツブルグ音楽祭でのライブ音源である。これが実に実に、素晴らしい。すくなくともぼくには、 この演奏がいちばんしっくりくる。
音楽ファンならみんな知っているけど、グールドは1964年にコンサート・ドロップアウト宣言なるものをし、 聴衆を前にしての演奏活動を一切止めてしまった。 トップアーチストの常識外れの決断は世界中をおどろかせ、復帰を熱望する声は晩年まで絶えなかったが実現せず、 このライブ音源も、彼の死後ようやくリリースされたものである。

グールドがなぜ、コンサート活動を止め、レコーディングスタジオに閉じこもるようになったのか。 一発勝負のコンサートでは「テイク2がない」というのが彼の言い分である。 ミスタッチへの恐怖、数千人の聴衆を前にしての極度の緊張感に心身をさらして疲れ果てるよりも、 レコーディングスタジオで、アイデアの湧くかぎりのテイクを録り、テープを編集して最良の演奏を提供する。 アーチストにとっても、聴衆にとってもそれが最良の道だと彼は考えたのである。

しかし、このザルツブルグ音楽祭のライブ演奏を聴くと、彼のコンサート・ドロップアウトが、 やはり残念な決断だったかも知れないと思えてくる。コンサートにはたしかに「テイク2」はないが、唯一無比の「テイク1」がある。 というより、一度走りはじめたら最後まで突っ走るというのは、音楽の根本原理ではないのか。 ちょうど人の一生と同じように...。
グールドは自分のイデアの実現のために、テクノロジーの力を借りて、 音楽の根本原理にメスをいれようとしたのだろう。テクノロジーと演奏芸術を融合させ、 まったく新しい(ディスク、或いはビデオという名の)芸術ジャンルを立ち上げる。それが彼の描いた夢だったろう。

けれども、練りに練り上げた「テイク2」の成果を踏まえたうえで、 もう一度、唯一無比の「テイク1」のまな板にのせて料理してほしかった...というのがぼくの(あるいはおそらく、多くのグールドファンの) 見果てぬ夢でもあるのだ。
神経過敏なグールドにとって、コンサートのステージは針のむしろだったには違いないが、 1959年のライブ演奏を聴くと、彼には即興的なインスピレーション、 プレッシャーの中でポジティヴにテンションを高めていく才能にも恵まれていたことがわかる。

冒頭のアリアは、まったく素晴らしい。テンポは高速だが、ノーブル。深い癒しがあり、 1981年録音のアリアよりもずっといいと思う。その後の変奏曲も、天馬空を走るような超高速で音楽が流れるけれど、 驚くべきことにせかせかした感じが全然しない。これはいったい何なのだろう。 グールドは車の運転が好きで、愛車のリンカーンコンチネンタルでよくドライブしたそうだけど、 この演奏は、思春期の少年が風をきって走る自転車のようだ。 フランソワ・トリュフォーの短編映画『あこがれ』を思い出していただけるといい。グールドは音楽と一体化して、無心になっている。 このよどみない音楽の線が、果たしてスタジオで編集されたテイクで可能だろうか。疑問。

そもそも、グールドが考えていた「テイク2」の方法論は、彼が考えるほど斬新なものだったのか。 スタジオでいくつもテイクを録っていいところだけど繋ぎあわせるやり方は、特にオーケストラ曲のレコーディングでは当たり前である。 オペラのような長丁場の音楽ならいざ知らず、30分から50分程度の曲ならば、 一気に演奏した方がいいテイクが録音できるんじゃないのか?

グレン・グールド。生で聴きたかった、なんて無茶なことはいわない。
せめて、レコーディングのためのコンサートを開いてくれたらよかった。 テレビやラジオのための生演奏はけっこうやっていたのだし...。それらの音源は現在ほとんどCD化されているが、 ほとんどがモノラルで音質はよくないのである。
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by thatness | 2005-03-12 10:24 | 音楽_classic

贅沢なり欧羅巴、ゲオルギューとショルティの『椿姫』

もう先々週になるが、ヴェルディの歌劇『椿姫』をDVDで見た。
1994年、コヴェント・ガーデン・ロイヤルオペラハウス(英国)でのライブ。指揮はゲオルグ・ショルティ。 キャストは、ヴィオレッタ(椿姫)にアンジェラ・ゲオルギュー、恋人のアルフレードにフランク・ロバード、 アルフレードの父ジョルジュにレオ・ヌッチ...という面々。

このDVDについて、なにか書きたい、書かねばと思いつつ、2週間なのである。 言葉を捻りだそうとしても、まるで中世の大聖堂の穹窿を見上げたように (いや、欧州には行ったことがないので、阿蘇の火口を見下ろしたときのように、と代わりに言おう)、 ただただ圧倒されて言葉が出てこない。贅沢きわまりない2時間であった。

『椿姫』は絵に描いたような悲劇のドラマである。
舞台は18世紀のパリ。ヴィオレッタは裕福な老侯爵をパトロンに持つ「プロの愛人」である。 豪華な家を与えられ、夜な夜な貴族たちが集まっては享楽的な宴を繰り広げているが、 重い結核を患っていてあまり長く生きられそうにはない。そこで出会ったのがプロヴァンス出身のハンサムな青年貴族アルフレード。 2人は恋に落ちて駆け落ちするが、互いに世間知らずゆえ経済的に困窮。 アルフレードの父親にも隠れ家を見つかって仲を引き裂かれ、失意のうちにヴィオレッタは衰弱して死んでしまう。

というわけで、ドラマそのものは単純である。敵役も三角関係もないので、感情的な葛藤も浄化もない。 モーツアルトのために台本を書いたダ・ポンテのほうがはるかにドラマツルギーにはすぐれているのはいうまでもない。 しかしながら『椿姫』には、背筋が凍るような業といってもいいような深い感情が流れていた。 それはまさにヴェルディの音楽の深さだろうけど、舞台で展開したような不幸で理不尽な出来事が、 絵空事とは思えなかったということもある。ヴィオレッタのようなプロの愛人、 ようするに高級娼婦と呼ばれる女性たちは実際にいて、ドミ・モンドと呼ばれていた。 甘い悲劇のメロドラマではあるけれど、嘘はないのである。

しかしながら、まさにそこに戸惑ってしまう。音楽と舞台に酔いしれる自分がいる。 けれど、こんな悲劇的なドラマを贅沢に楽しんでいいのか、ということである。 オペラ(とくにイタリア)はやはり、文学ではないのだなと思う。 人間の在りようや感情を学ぶのではなくて、高級ワインように味わい尽くす。不幸も悲劇的な運命も...。甘美でありながら残酷なのだ。

日本にも歌舞伎や人形浄瑠璃の伝統がある。その方面は(恥ずかしながら)全然知識も感受性もないけれど、 溝口健二の映画でその世界の一端に触れた体験はある。そこには深い人間観察とドラマツルギーはあるが、 エネルギーのベクトルが違う。『西鶴一代女』は、観客を田中絹代と同じ不幸のどん底に引きずり込むのに対し、 オペラはそれすら甘美な感情に転換してしまう。オペラが贅沢三昧の、 貴族のための文化であったことを思い知らされてしまうのである。

それでも『椿姫』は素晴らしい。有名な「乾杯の歌」、アルフレードの父が息子に切々と歌う「プロヴァンスの海と土」。 ヴェルディという人間が、才能のすべてを音楽に捧げて練り上げた「真善美」がそろっている。 特権階級の享楽と社交に供した以上のものが、存在するのではなかろうか。 どうしていままで、こんな最高の音楽があることに気がつかなかったのか。 そういえば、義務教育ではドイツ音楽ばかり学習させられてきたっけ。 歌曲もシューベルトだったし...。教えられたイタリアの音楽といえば、ヴィヴァルディの『四季』か「サンタ・ルチア」。

実をいうと、本格的にイタリアオペラを鑑賞したのは今回が初めてである。(知ったふうなことを書いてきて、申し訳ないです...笑) 十年以上かけてこつこつモーツアルトを聴いてきたように、イタリアオペラを聴いていこうと心に誓ったところ。贅沢ですか?

最後に、このDVDでヴィオレッタを歌ったアンジェラ・ゲオルギューについて。彼女は、すごいです。歌唱力と、その美貌...。 コヴェント・ガーデンのような一流のオペラハウスで主役を張るには、それなりの名声と実力が不可欠。 というわけで、役は10代、20代の娘なのに歌手は厚化粧の40代、50代...という事態になってしまう。 それはある程度しょうがないし、未熟な若い歌手よりは歌唱力のあるベテランのほうがいいに決まっているので、 DVDで見てもあまり気にはならない。

しかし、ゲオルギューが歌う(演じる)ヴィオレッタはまったく美しい。 連想するのは、『椿姫』から想を得たと思われるカポーティの『ティファニーで朝食を』である。 ゲオルギューは映画化された『ティファニー...』で主役を演じたヘップバーンみたく、輝いている。 (そういえばヘップバーンも『マイ・フェア・レディ』というミュージカル映画に主演したが、歌は吹き替えだった) ゲオルギューのヴィオレッタは、この公演の3年後鬼籍に入る指揮者ショルティの大抜擢によって実現した。 2人は、音楽というきずなで結ばれた一期一会の「老侯爵と椿姫」であった、といえるかも知れない。
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by thatness | 2004-12-05 15:22 | 音楽_classic

エリック・サティのvexation

ピアノ曲、"vexation"(ヴェクサシオン)。
曲名は、フランス語でいらだちという意味だそうである。

まあ、有名なので、知っている人にはなにを今更ということになろうが、 この曲、譜面どおりに演奏すると約19時間弱かかってしまう。 ギネスブックにも世界最長の曲として認定されているとか。 といっても、辞書みたいにぶ厚い譜面ではない。 曲そのものは26拍しかなく、そのフレーズを840回、 レントで反復するように指示がしてある。まさに「いらだち」なのです。

実は、この曲のレコードを持っている(笑)。

オランダのラインべルト・デ・レーウという音楽家が演奏したもので、 さすがに譜面の指定通りの回数は収録されていないが、 A面とB面あわせて35回、 約50分の「いらだち」を楽しむことができる。 これを両面24回かけつづけると世界最長の音楽を聴くことが出来るはずだが、もちろん試したことはない。

サティという作曲家は、こういうことばっかりやってきた人である。 音楽の歴史や権威をユーモアのセンスでひっくり返そうとする。その発想が支離滅裂ではなく、 その後の音楽の方法論を拡張してきたところがすごい。 しかしながら残念なことに、その後の時代のサティ的音楽は、 癒しの要素とかの「いいところ盗り」で、そのラジカルな本質的部分を避けてしまっているようだ。 考えてみてください。"vexation"を、サティは最初から最後まで、 まともに聴いてもらおうとなんて端から考えていない。それはすごいことです。 80年代にはいってから国内外ですぐれたアンビエント(環境音楽)のレコードが制作されたけれど、 あまりに音が美しくてついつい聴き込んでしまうものが多い。 それはとどのつまり、プロ(商業主義)の音楽だからといえる。 アーチストの存在証明がかかっているのだ。(ケージも、イーノもその例にもれない)  サティはそういうアーチストエゴをも超越している、本物の先駆者である。まさにデュシャンがそうであったように。

それにしても、流れてくる音楽を「聴かない」ことのなんと難しいことか!
こんなもの無視していいんだよ、という芸術なんてほとんどない。 音楽の世界でこんな発想をしたのはサティとモーツアルトくらいではないか。 彼らの書いた諧謔性豊かな作品は、われわれではなく、もっと先の時代の音楽性を見据えているのかもしれない。

ちなみに、先にご紹介したレコードであるが、 演奏者のデ・レーウはサティ顔負けのユーモアを演奏に仕掛けている。おわかりでしょうか?  演奏回数はA面とB面あわせて35回。...ということは奇数ですね。つまり表と裏、 どっちかで1回多く弾いているはずだけど、まったく同じテンポで弾いているのでわからない。 演奏時間もA面で26分31秒、B面は26分30秒、と誤差は1秒。 ということになると、これはあきらかに意図的ですね。さて、どっちの面で1回多く弾いているのか?  まさに「いらだち」との戦いになってしまいますが。(まあ、CD化されて意味がなくなってしまったわけだけど)

サティも面白いが、デ・レーウという演奏家もたいしたひとです。
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by thatness | 2004-10-21 15:19 | 音楽_classic

雲井雅人サックス四重奏団を聴く

24日。地元の音楽ホール。
サックス四重奏団のコンサートに行った。ソプラニーノ、アルト、テナー、バリトンの4管のアンサンブル。 といってもジャズではありません。クラシックです。

サックスとは、いまから160年ほど前、ベルギーのサックスさんという方が発明した楽器なのだとか(...知りませんでした)。 クラシックのオーケストラのために拵えられた楽器なのだろうけど、実は本家本元ではあまり普及していない。 もっぱらポピュラー・ミュージックで活躍している。

サックス四重奏というのがクラシックにあるというのは知っていたけれど、どんな曲があってどんなサウンドなのか、 見当もつかなかった。 チケットが安かったというのもあったけど、好奇心をおさえられなくて足を運んでしまったのである。

ステージに4人の演奏家が登場したとき、最初にまず、楽器の美しさに目を奪われてしまった。 柔らかい曲線の管と複雑な弁が、照明を浴びてきらきらと光り輝いている。まさに「金管」である。 しかも、意外と大きい。サックスの形状はこういうもんだと知ってはいたけれど、目の当たりにすると迫力があった。 存在感のある楽器なのである。

響きは素晴らしかった。ぶあつく、柔らかい。

実はわが町の音楽ホール(中ホール)は全国的にみてもトップクラスの音響を誇る、とぼくは思う。 (その証拠に、昨年はアルバン・ベルグ・カルテットがここでリサイタルを開いた) そのホールが、歌うように朗々と鳴る...。 弦楽四重奏のサウンドが、空から舞い散るような雪だとすれば、サックス四重奏は地鳴りのようでもあり、外洋の大波のようでもある。

同時に、繊細で知的な表現もできるのが面白い。管一本だとシンプルな音しか出せないけれど、 4本だと弦楽四重奏と構成は同じ。各々の声部の分離がいいので、バッハの『フーガの技法』なども演奏可能なのではないか。 (体力的に全曲は無理でしょうけど)

さて、その日のプログラム。サックスのために書かれた曲というのがなかなかないので、 どうしても編曲ものがプログラムの大半を占める。ビゼーの『カルメン』からの抜粋、 ドボルザークの弦楽四重奏曲「アメリカ」の第1楽章、ガーシュインの『ラプソディー・イン・ブルー』など。 ベルギーからフランスの軍楽隊を経由してアメリカで普及したという(...知りませんでした)、 サックスの歴史性を念頭においた構成だろうか。そんな理屈をこねなくとも、 とにかく楽しい演奏。隣に座っていた初老の男性などは、扇子を指揮棒代わりに振り回して楽しんでいた(....ちょっと、迷惑でしたよ)。

いちばん感動したのは、バッハの「G線上のアリア」。

この曲のイメージは、ヴァイオリンの独奏を聴いても、原曲の小オーケストラで聴いても、 センチメンタルな印象しか持たなかった。他のバッハの作品とくらべると明らかに見劣りがするし、 精神性の低い世俗曲だと決めつけていた。
ところがサックスで聴くとどうだ。まるでオルガンで聴く教会コラールなのである。 敬虔なプロテスタントだった、バッハの祈りが聞こえてくるではないか。これにはやられた。 身を乗り出して聴く。目からウロコであった。

よくよく考えてみると、サックスもパイプオルガンも、空気が金管を抜けるわけだし、音を出す構造は同じである。 というか、人の息で直接音を出すサックスのほうが、より繊細な表現ができるのかも知れない。 見知った楽器から、見知らぬサウンドが流れてくる。新鮮な体験であった。

サックスという楽器は、面白いものだなと思う。
たった4人の息、横隔膜のコントロールでこれだけの音量、繊細な表現である。 人間には声という素晴らしい楽器も備わっているけれど、サックスもまたそれに見劣りしない表現力を持っている。 無色透明で、ふだんは意識しない空気に、 音楽という方法で色彩をあたえデザインするのがサックスだと思った。 音楽の力で、空気が見えるのである。

そういえば、管楽器のことを、英語では「wind insturument」という。見えない空気を感じさせる力として、 サックスはまさに風でした。
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by thatness | 2004-08-26 15:18 | 音楽_classic