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カテゴリ:美術_art,photo( 9 )


instant light

知らなかった。
あのタルコフスキーがポラロイドを撮っていたこと、写真集が2004年に発売されたもののあっという間に完売したこと。

アマゾンの紹介文によると、 タルコフスキーは1979年から1984年にかけて(ということは『ノスタルジア』の制作準備期間とほぼ重なる)ポラロイドを携帯し、 200枚ほどのスナップを残したらしい。 その中から、イタリアの写真家と遺児が共同で60枚をセレクトし、写真集として纏め上げた。 序文はトニーノ・グエッラ(イタリアの詩人・脚本家、タルコフスキー、アンゲロプロス、タヴィアーニ兄弟らと脚本を共同執筆) が書いている。

値段が手頃なこともあって、ずいぶん売れているようだ。ペーパーバックとはいえ、収録されたスナップはほぼ原寸大である (なにせ、ポラロイドなので)。ファンには垂涎のアイテム。好きな方は、ヤフーオークションで法外な値が付く前に、 買っておくことをお薦めします。

スナップは(予想通りではあるけれど)美しいものであった。

ロシア時代のものは家族や自宅周辺の風景、イタリア時代のものは『ノスタルジア』の撮影地や友人たちが被写体になっているのだが、 タルコフスキーが好む茫漠とした外光や室内の逆光線がポラロイドの質感と見事にシンクロして、 神秘と深い感情にあふれる映像がここでも実現されている。
映画という技術がタルコフスキーを待っていたように、ポラロイドもまたタルコフスキーを待っていたのではないか。 写真集のタイトルは「instant light」だが、いったいなにが "instant"なのだろう。"instant"という言葉そのものが、とてもスピリチュアルにきこえてくる。

さらに想像するに、タルコフスキーはポラロイドの質感だけでなく、 撮影したイメージがその場で浮かび上がってくるプロセスにも魅せられていたのではないだろうか。

タルコフスキーは、映画のことを「時間の刻印」といっているが、映画(映像)は時間の記録ではなく、 本質的に時間の創造であるといえるだろう。その瞬間に撮られた自分のイメージも、映画という異化された時間のなかでは変容の素材に過ぎない。 あらたな時間の創造のためには、すべてのイメージが「犠牲」としてささげられる。

ポラロイドに刻印されたイメージが浮かび上がってくるとき、 タルコフスキーは、自分と自分を包み込んでいる「瞬間」が、彼自身のポエジーにささげられるプロセスを目の当たりにしたと思う。 そのリアルタイムの変容は、映画制作のプロセスでも体験できない、ポラロイド独自のものだ。
ましてや、そのイメージの刻印される場は掌にものっかる小さなフレームなのである。 『ノスタルジア』や『サクリファイス』で、深い郷愁をミニチュアで表現した彼には、その小さな映像は特別な訴求力をもったに違いない。 それは彼自身の言葉を借りるならば、「魂のレプリカ」ですらあったろう。

だからぼくは、作品そのものよりも、彼がポラロイドを光に向けシャッターを押し、 フレームにイメージが浮かび上がってくる「その瞬間」の映像を見たかった、とわがままな思いを抱いてしまう。

だってそうだろう。
ポラロイドは、動かない。音声がない。サイズが映画(スタンダード)ではない。 ようするに、イコンが神の似姿であっても、神そのものではないように、それがどんなに美しかろうと映画ではないのだ。 ヴェンダーズの写真は面白いけれど、それが動き出して欲しいと思うまでには刺激しない。タルコフスキーの遺した映像は特別である。

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by thatness | 2006-08-15 14:38 | 美術_art,photo

二十六聖人記念聖堂、長崎

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by thatness | 2006-06-07 19:56 | 美術_art,photo

100drine

12月のある日、スターバックスで読書をしていて、ひとつのタンブラーに目がとまった。 白クマの親子が雪景色のなかで抱きあっている図柄。かわいい。思わず手に取ってしまう。そこではたと気づいた。 ...これは、ひょっとして100DRINEの作品ではないのか? 掘り出し物かも...。

その場ですぐに買えばよかったのに、優柔不断で(毎度のことですが)ついつい先延ばしにしてしまう。 無駄遣いをしないという利点もあるにはあるが、買いぞびれて後悔することも多い。 気になるそのタンブラーも、大晦日に店に足を運んだときにはもう無かった。クリスマスの限定商品だったのである。 結局どうしても欲しくなり、ヤフオクで検索して探しだし落札。落札価格はほぼ定価ではあったけれど、送料や送金手数料のぶんだけ余計にかかってしまった。 しょうがないです。。

100DRINE。フランス語なのでサンドリーヌ(またはソンドリヌ)と読む。本名、Sandrine Fabre。 1970年生まれ。国立美術装飾高等学校にてデザインテキスタイル科を卒業。現在、イラストレーター、画家として活躍中。

6、7年前、ネットである方から「ものすごく愛おしい絵のポストカードを見つけたのだけど、 作者がわからない」というメールをいただいたのが最初の出会い。それはほんとうに愛おしい絵で、ぼくもすっかり気に入ってしまった。 しかし、作者についてはまったくわからない。100DRINEというサインはあるが、それがアーチストの名前だとは思いもよらない。 その後、ポストカードが(わが町のような田舎の)雑貨屋さんにも並ぶようになり、公式サイトもいつのまにか立ち上がり、 ようやくアーチストについての情報が入るようになった。 いまでは小さな絵本が日本語で出版されているし、ポストカードの他、カレンダーなどもアマゾンや丸善で入手できる。

彼女の絵の魅力は無垢であること。これに尽きる。

ややくすんだ感じの色調を背景に、崩れた線で描かれた動物や人形のポートレート。 愛犬から無垢な瞳でみつめられたら愛撫せずにはおれないように、彼女の絵は(いい年をした男がいうのもなんだが...) 宝石箱のなかにしまっておきたいような気持ちにさせる。100DRINEのファンは、こういう絵描きを知っているぞと、 声を大にして言いたくはないのだ。自分だけのフェイヴァリットとしてお守りのように心に止めおきたい...、 そういう気持ちにさせてくれるアーチストなのである。

美術の世界では、「かわいい」とか「好き」とかは絵本やイラストの世界であって、ほとんど見向きもされなかったように思う。 ましてや美術批評の世界ではこれが「好き」「かわいい」などという言葉は禁句に等しい。 しかしながら、この100DRINEやわれらがMAYA・MAXXなどの(あきらかにすぐれた)作品をみるに、 「かわいい」や「好き」と思いなすことに何の違和感も感じない。

100DRINEの線はひ弱で、かたちは崩れかけているように見える。しかし、だからこそ絵が生きている。 彼女がしばしば絵のモチーフにぬいぐるみやペットをえらぶが、それらはいつかは捨てられ、寿命が尽きて死ななければならない運命にある。 ささやかな日常生活のなかの、受け入れがたい不条理。あまりに小さく、 ありふれていて表現にならなかったような哀しみやよろこびの世界をしっかりと受け止め、抱きしめているのが100DRINEなのではないか。 われわれがぬいぐるみやペットにしたように、彼女の絵には、愛するものによって吹き込まれたいのちや愛情があふれいる。

「かわいい」「好き」という感覚がアートの世界でも愛されるようになったのは、われわれの中に、 いまだかつて無かった弱さや壊れやすさへの信頼感があるからではなかろうか。 弱さや壊れやすさは、心を傷つきやすくするけれど、新しい世界への順応性にすぐれ、塗りかえる力もある。 たとえば、ウイルスがそうだ。熱に非常に弱く、生命力はないが遺伝子の構造がシンプルなので変異しやすい。 壊れやすさは、ひとつのサバイバルなのである。新しいアート、または新しいハピネスが、壊れやすさのなかに宿っていてもおかしくない。

さてさて...。年が明けて落札したタンブラーが送られてきた。

なかなかいいぞ。しかし、しげしげと眺めるうちに、ほんとうにこれが100DRINEの絵かどうか、確信が持てなくなってしまった。 彼女の絵にはかならずサインがあるはずなのだが、ない。色彩や線のタッチはまぎれもなく100DRINEなのだが、いまひとつ深さが足りないような。 ううむ、ちょっと自信がないのです。

ついでにいうとこのタンブラー、実用性がほとんどありません。魔法瓶のような保温性があるわけはないんだが、 飲み物の冷め具合がふだん使いのマグカップと大差ないのにはがっくりきた。いちいちカップに注がないといけないぶん手間がかかる。 ようするにこれは、お店から会社へ飲み物を持っていくときの入れ物に過ぎないのだろう。でも、せっかく手に入れたもの。大切にするつもり。

それにしても、スターバックスのタンブラーにプレミアがついているとは知らなかった。 ヤフオクをのぞいてみると、地域限定、期間限定のデザインがいろいろとあり、見たところなかなかいいものが揃っている。 定価よりも高い値段(といってもまだ、法外な価格ではない)がつくところをみるに、すでにコレクターがいるのだろう。

ちなみにスターバックスの公式サイトを見てみると、デザインを自由に変えられるマイタンブラーも売っているらしい。 タンブラーの型紙がPDFで公開されているので、プリンタで印刷して好きな絵やデザインを描き、底蓋をはずして中に挟み込む仕組みだ。 これは面白い。わがサイトの開設2周年記念にでもドローイングを描いて皆さまにお配りしようか。...と思っているが、迷惑でしょうか...?

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website 100DRINE
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by thatness | 2006-01-09 00:40 | 美術_art,photo

とにかくなにかをつくりたい。

コニカミノルタが、写真事業を大幅に縮小するらしい。(朝日新聞、電子版の記事)。 具体的になにがどうなるかはわからないけれど、おそらく小売店で売っている35ミリのネガフィルムは姿を消してしまうのではなかろうか。 フィルムだけではない。コニカはかつて、コンパクトカメラの名機を出した優秀なカメラメーカーでもあった。 ヘキサノンというレンズがとても良く、 露出に失敗しなければ、素人にも発色のいい画が撮れた。 ぼくの手元にも、友人N君がジャンク品からレストアしてタダでくれた名機C35が一台ある。 ストロボは駄目だが機械そのものは壊れていなくて、いまでもじゅうぶん撮影できる...はず。 N君によると、あの荒木経惟さんも愛用していたらしい。

ついでにいうと、コニカはスーパー8というコダックと同じタイプの8ミリフィルムも製造して現像もやっていた。 そのころはコニカじゃなくて、サクラカラーという名前だったけれど。 嗚呼、懐かし哉。コダックと比較するとその色調は硬く、暖色系の発色は苦手だった。 しかしブルー系はなかなかきれいで、青空とか、 秋の海を撮るととてもいい色を出してくれた。 コニカといえば、個人的には8ミリフィルムのメーカーとしてなじみ深い。

常々感じるのだけど、テクノロジーで面白いのは、数千年前からいまだに変化のないものがある一方で、 100年足らずで存亡の危機にあるものが少なくないこと。たとえば車輪なんてものは人類文明発祥の頃から存在しているし、 最後の審判その日まで残るにちがいない。油絵の具も、紙の本も、まだまだこの世から消えることはないだろう。 けれど、たとえば映画の世界では、テクニカラーという間違いなく最高の色彩技術が、 イーストマンコダックその他のフィルムに駆逐され絶滅するということが起きてしまっている 。 ぼくもテクニカラーで現像された映画は一度もスクリーンで見たことがない。

銀塩からデジタルへ。

『スターウオーズ』の新3部作を見たとき、これは映画ではなくデジタルコンテンツだと痛感した。 フィルムがとらえる光の質感というものが皆無なのだ。デジタルコンテンツとしては楽しめるが、映画を見たという実感はまったく湧かない。 同じように、デジカメで撮影した画像は果たしてほんとに写真といえるのだろうか。

話は飛ぶが、世界的な建築家のフランク・ゲーリーが設計したスペイン・ビルバオのグッケンハイム美術館を雑誌で見たとき、 建築も此処まで来たかぁ...と感嘆せずにはおれなかった。 これはもう、人間とコンピュータとの共作としかいいようがない建築物。 しかしこれなどまだ序の口で、数万点のパーツがすべて異なっている建築物がオランダにあるという(...新日曜美術館で知った)。 これらを『スターウオーズ』と同様に、もはや建築ではない、デジタルコンテンツだというのは暴言でしょうか。...暴言ですね。

ぼくはデジカメとフォトショップで画像を制作しているので、 これを写真と呼んでいいのだろうかという懐疑をいつも背中に背負っている。 パソコンを通せば、画像データは退色したレトロなカラーにも、モノクロにも変貌する。 それは一見フェイクのようにもみえるが、コンピュータにしか出来ないエモーショナルな表現もあるのではないか、 という希望を捨てきれない。学生時代に8ミリでやっていたことを、ありあわせのマテリアルとマシンで続けること。新しいことへの糸口がみつかることを、 いまも夢見ている。
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by thatness | 2005-11-05 01:21 | 美術_art,photo

バリー・フラナガンを知っていますか?

日曜日、ひさびさに福岡市美術館へ足を運んだ。
ウエブサイトで企画展のスケジュールをみると、最近気になっているアンフォルメルの版画作品や、柳幸典さんのインスタレーション、 江戸時代の禅僧仙がい(がいは、がんだれに圭)の水墨画展などなどをやっている。どうするべ...と迷っていると、 コレクションのなかにバリー・フラナガンの野外彫刻があるのを見つけておどろいた。
美術館を訪問するときはいつも地下鉄を利用する。大濠公園駅で降り、広大な人工池沿いの遊歩道をのんびり歩いて10分。 草間弥生さんの水玉カボチャやアンソニー・カロの作品にむかえられて2階のエントランスホールにはいる。 NHK福岡放送局に面したメインエントランスからはいることは滅多になく、 そちら側にバリー・フラナガンの作品があることにまったく気がつかなかったのだった。

バリー・フラナガン。
1941年生まれのイギリスの彫刻家である。

美術館のサイトの解説にもあるように、 フラナガンはもともと砂や石膏を袋詰めにした(パッと見...サンドバッグみたいらしい)コンセプチュアルなオブジェを制作していたが、 80年代からウサギをモチーフに具象彫刻を手がけるようになった。 ぼくは彼のことを中沢新一さんの『野ウサギの走り』という著作で知ったのだけれど、作品のウサギたちのユーモアあふれる動きと、 醸し出されるメタフィジックな精神性にとても惹きつけられた。

その形態についてすこし具体的にいうと、ウサギたちは、その身体をぐいっと伸ばして跳躍しているものもいれば、 二匹でボクシングをしているもの、サーカスのアクロバット演技をしているようなものがいる。 手足を蛇のように伸ばし何をしてるのかわけがわからないもの...、なかには望遠鏡をのぞき込んでいる作品もあるという。 ウサギたちは、ユーモラスで躍動感あふれる何かをつねに「している」。 そして(ここがフラナガン作品のキモなのだが...)ウサギたちは例外なくシンボリックな形態の台座のうえで飛び跳ねている。
たとえば福岡市美術館の作品では、重量感ある釣り鐘の上にフラットな三日月がのせられ、その上をウサギが軽やかに跳躍している。 箱根の彫刻の森美術館にある作品では、二匹のウサギは十字架のうえでボクシングをしている。 あるものは(金属加工に使う)金床のうえでボクシングのファイティングポーズを取り、象の背中でヒンズー教の神様のようなダンスをしている。 ウサギたちのアクションとユニークな台座の組み合わせはメタフィジックな連想を誘う記号となり、作品を単なるユーモラスな具象彫刻にはせず、 精神性の高いものにしている。

日曜日、ぼくが見た「三日月と鐘の上を跳ぶ野うさぎ」も、眺めれば眺めるほどさまざまなイメージが湧いてくる。 釣り鐘は重量感ある金属であり大地、三日月は軽快で広大な宇宙、ふたつのシンボルに接地しながらも跳躍するウサギは、 まるで宇宙へ船出しようとする人間の探求心。 または、キリスト教世界(釣り鐘)とイスラム教世界(三日月)などイデオロギーを易々と飛び越えて疾走する... というのは単なる連想(憶測...笑)にすぎないのだが、いずれにしろこの彫刻には透明でしなやかな「精神」を感じさせてくれる。 それを「見る」ことのできる人間としての自分の不思議さ。しかも決してアカデミックにならず、 しなやかでユーモラス、親しみやすいところにフラナガンの作品の魅力がある。

しかし、なぜウサギなのか。

ウサギは、生態系のなかでは非常に弱い立場にあるという。草食動物のなかで、馬やカモシカのように逃げ足は早くなく、 リスやネズミのように身を隠すための小さな身体がない。身体が小さいため、植物を完全に消化する腸ももたない。 そこで「食糞性」といって、肛門に口をつけて自分の糞をもう一度食べて2度目の消化をしなければならない。 また、リスやネズミのように、木の実など高カロリーのものを食べる能力もない。あの大きな耳は、そのためのものなのだ。 いち早く敵の接近を感知して、草原の繁みや地下に逃げ込むための...。

ヨーセフ・ボイスは野ウサギを、国境やイデオロギーを易々と越えてユーラシア大陸を横断する未来の精神のシンボルとして、 アクションや作品にさかんに登場させた。ゆえに、ウサギは現代美術にとってはひとつの神話である。
しかし、イギリスのファンタジー小説『ウオータシップダウンのウサギたち』にリアルに描写されているように、どう猛で残忍な一面もある。

ウサギは人間にとっては親しみやすい動物ではあるけれど、進化のつまはじきものであり、明と暗、善と悪、 既知と謎の部分をあわせもっているように思える。目に見える部分と、目に見えない神秘の領域を跳躍し、 行き来することが出来る。まるで、人間が昼と夜に意識と無意識の世界を行き来するように。

ぼくはいま小学校に勤務しているので、ウサギは飼育小屋で日常的に見ていて、しばしば抱き上げもする。 学校のウサギは人に飼われているせいか太っていて、水を満たしたビニール袋のようにぶよぶよしている。 しかし、ジェット旅客機や新幹線の先端をおもわせる流線型の顔には、人を寄せつけない畏怖のようなものが存在する。
ぽりぽりと飽きることなくエサを囓りながら、長い耳で世界からのあらゆる情報をひろいあげ、 澄んだ目は異次元の精神を読み取っているのかも知れない。その雰囲気は、犬や猫とはまるでちがう。流線型の高速輸送システムのように、 すぐにでも遠くへ走り去ってしまいそうな、毅然とした雰囲気を漂わせている。

ウサギは鳥のように空は飛べない。跳躍することが出来るだけだ。
高く高く舞い上がろうとしても、その身体は重力に逆らうことは出来ない。フラナガンはそのことを熟知したうえで、 台座となる部分に三日月や十字架など、シンボリックな形態を持ち出したのではないのか。跳躍するというリズミカルな運動に、 人間の精神のありようや未来を託したのではないか。

福岡市美術館には、アンゼムル・キーファーの『メランコリア』という(現代美術の世界では有名な)作品が展示されている。 戦略爆撃機とおぼしき飛行機の形態を鉛の板で再現しながら、大戦で焦土と化したドイツの大地や文化の再生をかんがえる重厚な彫刻だ。 おなじように跳ぶ(飛ぶ)ことモチーフにしながら、まったくちがうベクトルを持つふたつの作品。『メランコリア』が屋内で(厳重に)展示されているのに対し、フラナガンの作品は屋外の開放的な場所で展示されているのもまた、 対照的でおもしろい。アートは深いのだ。

自分自身や人間の未来を、フラナガンの作品にふれたときのように愛することが出来ればと思う。しなやかで、ユーモラスな精神の未来...。

余談だが、柳幸典さんの企画展示「イカロスの飛翔」もまた飛行をテーマにしたインスタレーション作品であったけれど、フラナガンやキーファーとくらべるとずいぶん見劣りがした。 残念...。イカロスの末路がどういうものなのか、アーチストもじゅうぶん承知のはず。

++
参考文献・『ヨーセフ・ボイス、国境を越え、ユーラシアへ』ワタリウム美術館

福岡市美術館 「三日月と鐘の上を跳ぶ野うさぎ」
箱根の彫刻の森美術館 「ボクシングをする2匹のうさぎ」

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by thatness | 2005-10-12 20:48 | 美術_art,photo

9月の光

昨日から冷たい風が吹きつづいている。
ついにTシャツ一枚ではいられなくなり、長袖のボタンダウンシャツを上から羽織った。 休日のお約束、愛犬を空き地に放ち、遊んであげていると彼岸花に混じってコスモスも咲き始めているのを見つけた。 秋なのである。あれほど騒がしかった蝉の鳴き声は完全に消滅してしまっている。 港の船の汽笛や、中学校の運動会のブラスバントの吹奏が、実にクリアに耳に届く。空気が乾いているからだ。

しかし日射しはまだまだ強くて、夏からのび放題の萱の葉に反射する白い光はなんともまぶしい。 目に見えない紫外線のナイフがもろに地上に降りそそぐような、カメラ泣かせの強くて白い光である。

映画の世界では、日が沈む直前の数十分間の光をとくに大切にしていて、 この時間帯でしかカメラを回さない(と公言する)映画監督もいる(いた、と思う...)。 この時間帯の光は、低い角度で差し込むので影が長くのびるだけでなく、地上の色彩を色鮮やかに浮き上がらせる。 太陽と反対の位置に灰色の雲でもかかっていればなお素晴らしく、セガンティーニの絵画のような迫力満点の映像ができあがる。

しかし初秋の、とくに逆光の光線は風景の遠近感を完全に殺してしまう。豊かな色彩ががりがりと削り取られ、 まるでカンバスの地肌が露出してしまうかのようである。青空は澄み切ってきれいだが、この季節の強い光は、 映画にも絵画にも嫌われているのではないかと思う。

しかし、ぼくはこの初秋の強く白い光がとても気になっている。

ものに映った光が白く見えるということは、光がふくむすべての波長が吸収されずに反射しているということだ(云うまでもないけれど...)。 つまり、一見して何もない、虚無の世界が広がっているように思えるけれど、実はあらゆる光が充満している。 絵画も映画も、あらゆる風景も光の引き算で成り立っているといえる。

フランスのアーチストにミッシェル・ヴェルジュという人がいる。 任意の壁や天井に映写機を使って(フィルム等を通さず)光を投影するというインスタレーションを続けているアーチストだ。 実物を見たことはないけれど、ワタリウムの『Light Seed』展の図録を見ると、壁や天井に円形の、 あるいは矩形のまっさらな光の「窓」が映し出されているだけの(一見すると、これがアート?みたいな)作品なのだが、そこにすべての光があるという事実を前にすると、 強く惹きつけられるものがある。これはまさに、彫られるまえの石材や木材とおなじ。アートの卵であり、溶鉱炉なのである。

それはたとえば、アニッシュ・カプーアの彫刻やインスタレーションで、 作品の真ん中にブラックホールのような闇がぽっかりと口を開けているのとは対照的。 ぼくは闇というものにあまり虚無をイメージすることはない。母親の胎内のように世界の始源を見ることができるし、そこをのぞき込んだとき、 闇に光を灯すべき主体としての自己が見つかるものとかんがえている。
ヴェルジュの作品の第一印象は虚無そのものである。しかし、実はすべてがあるのだ。ただの光のなかに、 自己も闇もすべてをふくむカオスがある。アートを生み出す土と水と種子が、一律のエネルギーとして踊っているのである。

母親の胎内にいるとき、人間はたしかに完全な闇につつまれていたのだろう。 しかし反対に、さまざまな臨死体験の報告では、死の直前、暗いトンネルを抜けると強烈な光が差し込んできて、全身がつつまれるのだという。...さてさて。

いのちの原風景は、闇か、それとも光か?
9月の光に、そのヒントがかくされていないだろうか。

++
「虚無」と「充満」という、視点を教えてくださったのはmyoirinさんです。
ありがとうございました。
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by thatness | 2005-09-25 22:42 | 美術_art,photo

温故知新、長崎県美術館へ行こう

光陰矢のごとし。
いつのまにやら長崎県美術館が竣工、ついに昨日開館とあいなった。

建設計画をはじめて聞いたのはいつのことだっただろう。 忘れていたわけではなかったけれど、ああ...もう出来たのか、という感じ。 期待していなかったわけじゃないのだけど、 コレクションは(老朽化ですでに解体された)県立美術博物館のものがそのまま収蔵されることになっている。 はじめから充実したコレクションがあるのは悪いことではないが、逆に云うと出来ることに道筋がついてしまい自由がきかないという面もある。 新鮮味がないといば、ない。 事実、県美のサイトを閲覧してみると、運営方針は既存のコレクションの活用、 企画展や市民ギャラリーの併設、 ワークショップの開催などなど、どこの地方美術館でもやっているような活動に終始しそうな気配である。
初代館長は県出身の伊東順二さんであるが、 いままでのキャリアがこの美術館で果たしてどこまで生かされるのか...。 瀧口修造は三顧の礼をつくされ富山県立美術館館長の就任を乞われても、固辞しつづけたぞ。

しなかしながら、新しい県美には、長崎という土地柄ならではの貴重なコレクションが収蔵されているのも事実で、 (ここを閲覧していただいているのはほとんど県外の方ばかりだろうけど)個人的に期待しているものをいくつかご紹介。

まず、ここにはアジア最強といわれるスペイン美術のまとまったコレクション(須磨コレクション)がある。 有名作家や大きな作品はないが、16世紀から20世紀まで、幅広い時代領域をカバーしている。 学生のころ、旧県立美術博物館で見たときは展示室の雰囲気も暗く退屈だったが、 新しい県美の展示室で鑑賞すると雰囲気も違うだろう。 15世紀のスピリチュアルなテンペラ画などをもう一度じっくり見てみたい。

それと、よく知られているように長崎は日本の写真発祥の地。 江戸末期から明治期にかけての古写真が長崎にはたくさん残っている。 とくに長崎大学の付属図書館には全国でも有数のコレクションがあり、ネットで閲覧することもできる。 ぼくは古写真の質感や、モノクロに着色した絵葉書写真をとても面白く思っているので、 県美の常設で見れるのを楽しみにしている。さらにあの東松照明さんの作品を常設でまとまって鑑賞できるのは、 全国でもここだけだろう。2000年に開催された「長崎マンダラ」展には行けなかったので、 「チビシロくん」や「キャラクターP」に出会えるのが楽しみである。

最後に、個人的にいちばんの期待は、スペインリアリズムの代表的画家、 アントニオ・ロペス・ガルシアの絵画を見ることができること。 ぼくはビクトル・エリセ監督の『マルメロの陽光』でこの画家のことを知り、 非常に惹かれたのだけど、 まだ実物を見たことがない。 (ひょっとして学生時代に見たのかも知れないが、そのころはまだ知らなかった...)
図版を見る限りでも、ロペス・ガルシアの絵画はすごい。 描くものは果物や室内の一角、 身近な家族のポートレートに過ぎないが、写真のように正確に描き、 写真には出せない不思議なリアリズムが伝わってくる。 画面に隙がなく、タッチはアンドリュー・ワイエスにも似ているが、ノスタルジーは無い。 まるで水晶の玉に吸い込まれるように、 ガルシア・ロペスの世界に自分が吸い込まれてしまう。オーソドックスな遠近法にも忠実な画面なのに、 見ることの意味、時間や存在の神秘について考えさせられる不思議な絵画世界。
ガルシア・ロペスはヨーロッパでは大変有名らしいけど、 一点の作品を仕上げるのにかなりの時間をかけるので作品数が極端に少ない。 『マルメロの陽光』でもついに作品は完成しなかったが、 県美が所蔵している作品にも完成に20年を要したことが記載されている。 彼の絵画は『マルメロの陽光』が公開当時は日本に3点しかなかった。寡作であることを考えれば、 いまでも日本で実作を見るチャンスは滅多にないだろう。
6月下旬までは常設されているようなので、ほとぼりが冷めたころを見計らって、 じっくり見に行きたいと思っている。

新しい県美術館は、キャッチフレーズにある「呼吸する美術館」というよりは 「温故知新」の美術館なのではないかと思う。 コレクションはすでに大量にあるので、カラーははっきりと出ている。 長谷川祐子さん率いる金沢21世紀美術館のように、 いちからコレクションを集めて立ち上げた美術館ではない。 斬新な試みは期待できないかも知れないが、 ワークショップなど枝葉の部分で小さな面白いことをやってくれればいいと思う。

ちなみに、建物の設計は隈研吾さん。
柱がまっすぐ立っていて、平らな屋根がのっかっている今どきの美術館にしては珍しく? まっとうでシンプルなデザインになっています。 『CASA』の最新号(特集・21世紀のミュージアム)にも掲載されているので (SANAAやピーター・クックの陰に隠れてあつかいはきわめて小さいですが...)、もしよければチェックされたし。
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by thatness | 2005-04-24 15:30 | 美術_art,photo

知られざるイコン画家、山下りん

NHKの新日曜美術館が好きである。
毎週欠かさず見ているわけではないけれど、好奇心をそそる特集であれば録画して暇なときに再生する。 とくに現役画家のアトリエにカメラが入り、製作過程を追ったプログラムが面白いが、そうでないものもじゅうぶん楽しめる。 疲れて神経衰弱に陥ったときなどの、気分転換にもちょうどいい。

今年の6月頃録画して、ほったらかしていたプログラムを日曜日の午後に再生した。 山下りん(1857〜1939)という、明治から大正期にかけて活躍した女性洋画家の特集である。 とはいえ、一般的にはほとんど知られていない画家ではないのかと思う。ぼくもまったく知らなかったし、 新聞のテレビ欄に「日本初の聖画(イコン)画家」というようなサブタイトルがなければ、録画せずにやり過ごしていたにちがいない。

ビデオを見て、びっくりした。知らないことだらけで。

まずもって、日本人にイコン画家がいたなんで知らなかった。 しかも女性で、それが山下りんなのだけど、彼女は最初に西洋絵画をアカデミックに学んだ (工部美術学校、イタリア人フォンタネージに学ぶ)日本女性でもあったという。びっくり。
フォンタネージはバルビゾン派の画家であったらしく、 りんは最初、緻密で正確なデッサン、油絵の具の自然な色彩感覚など、近代絵画に欠かせない技法をいろいろ学んだようだ。 その間に、ロシア正教のニコライ大司教と邂逅、その人柄を慕って正教会に入信する。フォンタネージの帰国後、 ニコライ大主教の勧めでサンクトペテルブルグの修道院へ留学、イコン修得を志す。 明治時代、女性一人でロシアへ。へえぇ、であった。

正教会の歴史的イコン、実物はあまり見たことはないがいいと思う。
実物をある展覧会でみたこともあるが、ビザンチン文化のイコンは、イタリアルネサンスの聖画とは全然ちがう。 遠近法もリアリズムの人物表現もないけれど、 聖人たちの表情や目は非常に神秘的で、画面構成は(現代人の目には)大胆でシュールですらある。 おそらく何百年も信者の祈りを浴びつづけてきた画面からは、絵の善し悪し以上の、 スピリチュアルなエネルギーが波動のように伝わって来る。 イコンはルネサンス絵画のようにでっかくはないけれど、見て心を動かされないひとはいないと思う。

りんはしかしながら、イコンの技法(というか、精神)を理解できずに、修道院で悶々とした日々を送る。 これも初めて知ったのだけど、イコンというのはすべて過去の作品の「模写」なのだそうである。驚いた。 神の御心を絵にあらわすために、画家はそのまま神の筆先とならねばならない。 新しいテーマや自分なりの構図、色彩、すべて許されないのだという。 イタリア絵画を学んだりんには、辛かっただろうなと思う。 いたたまれずに、こっそりエルミタージュでルネサンス絵画の模写などもやっていたようだが、見つかって禁止されてしまう。 2年後、りんは修得半ばで日本に帰国。 イコン制作にも幻滅して、ニコライ大主教に「愚か者」とまで言われてしまう。「絵に描いた」ような挫折であった。

明治、大正時代、多くの優秀な日本人が海外へ旅立っていった。 野口英世やオペラ歌手の三浦環のように、欧州で成功をおさめたひともいるが、挫折して失意のうちに帰国したひとも多くいただろう。 たとえば漱石のように。
しかし、挫折の経験が、日本人としてのアイデンティティに気づく契機になったり、 自分の才能の再発見につながり大成する場合もあるのではないかと思う。

山下りんは、数年のブランクの後に立ち直り、イコン画家として創作活動を再開したようである。 日本全国の正教会のためにイコンを描きつづけ、その数は数百点にのぼるという。
りんは帰国後悩み、自分の生きる道を模索したのだと思う。 番組のゲストに出演していた学者の方は、「りんは最初、ニコライ大主教への尊敬の念から正教会へ入信したが、 その後、時を経てほんとうの信仰心に目覚めたのだろう」とおっしゃっていた。たぶん、そうだろうなと思う。 当時、イコンを描ける日本人は彼女一人であった。布教によってふえる教会のために、 自分の使命を果たさねばならないと思っただろう。 洋画家として成功して名を成すより、イコン画家として敬虔な市井な信者のために神の筆先になる。 そこに彼女なりのほんとうの「自由」を発見したのだ。それは社会的な価値では計れない、 その人なりの最良の幸福の道であるといえる。

彼女の絵のほとんどは美術館にはない。 いまも日本各地の正教会で「現役」のイコンとして信仰の対象になっている。 その絵は、ビザンチン文化の伝統にのっとったというより、素朴で、色彩も明るくて、親しみやすい感じがした。 テーマや構図は、やはり正教会の規範にのっとったものらしいけど、絵の中に日本語やロシア語の文字も入っていたりして、 それがまた現代美術のように見えてしまうから面白い。なんとなく、横尾忠則さんの作品を思わせたりもする。

新約聖書の『福音書』のなかに有名な「種まきのたとえ」がある。 「種をまく人が、種をまきに出かけた。まく時に、あるものは道ばたに落ちた。 踏みつけられたり、空の鳥が食ったりした。またほかのものは岩の上に落ちた。 (中略)またほかのものは茨の中に落ちた。(中略)またほかのものは善い地に落ちた。 生えて育って百倍の実を結んだ」ルカ福音書・岩波文庫より

ここでイエスは種を神の言葉に、地を人の善き心、忍耐強い態度にたとえている。 つまり信仰は、正しい心の中にしか育たないということである。山下りんは、最初から善い土とはいえなかったのかも知れない。 しかし時とともに経験を積み、熟成し、最終的には意志の力で善き土になったのだ。

種は、善い土であればその色を選ばないはずである。 山下りんという女性の生涯に、宗教が本来持つべき寛容さを感じるとともに、 百年後、二百年後、彼女のイコンがどれほど輝いているか、想像するだけで楽しくなる。

最後にもうひとつ、この番組で知ったこと。
日本には、いまでも正教会があったのですね...。日本のキリスト教団には、 カトリックとプロテスタント、あとはモルモン教くらいしかないのだと思ってました。 神田のニコライ堂も、いまはただの「文化財」だと思っていましたが、日本正教会の本山であるという。 公式サイトもちゃんとありましたし、へえぇ、というよりは無知を反省、反省なのです。
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by thatness | 2004-12-13 15:23 | 美術_art,photo

武田花『猫・陽のあたる場所』

金曜日のこと。
職場の外を日なたぼっこしつつ、相棒とつらつら散歩していると、子ネコがもそもそと垣根を越えて近づいてきた。 真っ白な毛にぶちが混じっている生後2ヶ月くらいのチビで、人間にとてもよく慣れている。 どこかでエサをもらっている飼い猫にまちがいない。 かわいいし、毛並みも手入れされていて清潔なので抱き上げ、相棒の膝の上にのせてやる。 すると「びええ〜」とものすごい声を出されてしまった。「恐い恐い恐い」のだそうである...あはは。 どうしてかと訊くと、かわいく見えても突然引っ掻いたりするからいやなのだそうだ。なあるほど...。 それでも「初めてネコ、撫でました!」とまあ、ちょっと興奮気味によろこんでくれて、ぼくもうれしかった。

それにしても、ネコはの気まぐれさは、なんともいえず愛おしい。 通勤途中、ぼくに撫でてもらうのを(ほぼ)毎日待っているタマというネコがいる。 いつものように抱き上げようとした瞬間、手の甲を引っ掻かかれてしまった。発情期だったのだ。 ネコはいつもこんな風なので、いっしょに暮らしたいとは思わない。 けれど、目の前までこないとわからない行動パターンが、予想のつかない未来を象徴しているようで、面白いことは面白い。 遠くから眺める風景の中の一部として、ぼくはネコを愛している。

武田花さんの写真集『猫・陽のあたる場所』(現代書館)を、福岡の古本市で手に入れ、 しばらく愛読してきた。廃れきった裏通りのそこかしこ、ネコが写り込んでいる。 よくもまあ、こんなところに、と笑いを禁じえない場所にネコがたたずんでいる。 風景にすっかりとけ込み、目を凝らして探さなければわからないときすらある。 凛としたリアリズムと媚びないセンチメンタリズムが素敵な写真集だ。さりげなく添えられた短文もとてもいい。

一枚の写真から、いろんな風景の貌(かお)が見えてくる。
ということは、ぼくたちはふだんからひとつとして同じ風景を見ていないということなのである。 ネコという生きものが教えてくれるのは、世界はひとつではないこと、生きる人間(というより生きもの)の数だけ、 無数にあるということなのだ。
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by thatness | 2004-10-30 15:20 | 美術_art,photo