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カテゴリ:映画( 3 )


パッション

ジャン・リュック・ゴダールが、日本のアパレルメーカーの依頼を受けてテレビコマーシャルを監督したことがある。 忘れもしない80年代の中頃、就職した友達の寮に遊びに行ったとき、たった一度だけ、偶然にそれを見てしまったのだった。

きらめく太陽光線と、少女のシルエット。遁走曲のようにコラージュされたフランス語の響き。 なんだなんだこの映像は...と画面に釘付けになっていると、ゴダールの名前が出てきた。あの時ほど、時間よ止まれと思ったことはない。 わずか30秒、ひょっとしたら15秒だったかもしれない。 けれどぼくには2秒とか3秒にしか感じられなかった。光の散弾銃でぱん、ぱん...と胸を打ち抜かれた感じ。みごとな映画だった...。

後日、フランス語のテキストがゴダール自身の詩であることを知った。
手元にもう資料はないが、大意はいまでもおぼえている。


あなたがたである、パッション。
わたしたちである、パッション。

わたしという牢獄から魂の
ひとかけらを連れ出し解きはなつもの。


コマーシャルのために書き下ろした詩なのか、それとも映画『パッション』のための(膨大な)メモからの引用なのか...。 ゴダール本人だってもう忘れているだろうが...笑、いいフレーズだなと思う。 唯一いまでも謎なのは、主語が単数ではなく複数になっていることだ。あなたがたと、わたしたち...。 原文はどうなっているのだろう。死ぬまでわからないかも知れないが、 心の片隅に留めおきたいと思っている。古くても捨てられない帽子を、壁にかけておくように。

あのフィルム、もう一度見たいなあ。
映画館ではなく、小さなテレビの画面で。

思うのだが、テレビの箱形の形状は、まさに魂の牢獄と呼ぶにふさわしくないか...。 と、いいたいところだが、その形状はいつのまにやら、箱形からフラットな平面にとって変わろうとしている。 牢獄というより、鏡か...。コンテンツも、アナログ地上波からデジタル地上波へ。映画館の空間はまだまだ生き延びているのに、 ウイルス顔負けのテレビの急激な変化。ゴダールがつぶやいた「あなたがた」と「わたしたち」の真意も、テレビの変異とともに遠ざかっていく。
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by thatness | 2005-12-27 01:19 | 映画

『エピソード3・シスの復讐』

見ました。
アナキンがダークサイドに落ちる、新3部作の最終作『シスの復讐』。

エンドロールが上がってきての率直な感想は、自分が60年代生まれでよかったなあということである...。 旧3部作、第1作は高校1年の時にリアルタイムで見た。 つまり、ライトセーバーもダースベイダーも、愉快なR2-D2のことも何も知らずに映画館のスクリーンでいきなり出会ったということだ。 インパクトは強烈であった。 つづく『帝国の逆襲』、『ジュダイの帰還』もストーリーは手堅く、メカやキャラクターのアイデアも豊富で実に面白かった。
団塊の世代にビートルズとベトナム戦争があったように、ぼくらには「スターウオーズ」とパンクロックと教授(坂本龍一)があったのである。では、1999年からスタートした新3部作は、新しい「スターウオーズ」世代を作り出せただろうか。

『シスの復讐』はアナキンがダークサイドに堕ち、オビワンとの宿命の対決に追い込まれるエピソードの核心が明らかになるが、 アナキンの追いつめられ方が薄っぺらで迫力に欠ける。身を引き裂かれるような「設定」はあっても葛藤として伝わってこない。 ダークサイドそのものも、猛威をふるってジュダイ騎士を殲滅するという描写が中途半端なので身も凍るようなすごみがない。 伏線を張りすぎているので、かんたんに先が見えてドラマにならないのだ。
ウエブサイト「映画瓦版」の服部弘一郎さんは、そのコラムのなかで「コッポラが撮っていたら、 あるいは映画史に残る傑作になったかもしれない」と書いている。アナキンを『ゴッドファーザー』のマイケル・コルレオーネにしてしまえば、すごみのある映画になっていたはずという意見である。これは卓見だと思った。

ただそれ以前の問題として、ダースベイダー誕生のエピソードのみを軸に、 2時間強の映画を3本作ることはそもそも無理があったのではないかと思うがどうだろう。 アナキンは、新3部作で描かれているような心の弱さと葛藤をつねにかかえている内向的な人物としてでなく、 ジュダイ騎士の若き英雄としてもっと活躍させてもよかったのではないか。 ちょうどアーサー王伝説で有名な騎士ラーンスロットのように...。 最初の2作で英雄アナキンの大活躍と共和国の繁栄を観客すら信じて疑わないようなレベルまでドラマを高め、3作目に突入。 アナキンがスキを突かれ、皇帝に上りつめたナポレオンが悲惨な最期を遂げるように坂道を転がり落ちるプロセスを一気呵成に描く。 ...てな感じだと中身の濃いドラマになったかなあと、極東の一観客は思うのである。

スターウオーズの第1作は公開当時、莫大な資金を投入した荒唐無稽のおとぎ話との報道や評価が一般的だった。 しかしながらこれは、大傑作ではないかも知れないけれど、映画史に残る名作であるのは間違いないと思う。...とくに、ふたつの意味で。

ひとつ目は、映画に新しい宇宙空間と未来世界、SFのイメージを提供したこと。 1作目でぼくが最高に気に入ったのは、ディテールが人間臭かったことだ。 ハン・ソロ船長やど田舎の農夫マーク・ハミル、愉快なR2-D2とC3POなどキャラクターはいうまでもない。 おんぼろ貨物船のミレミアム・ファルコン(昇降ハッチのシャフトにこびりついたオイル痕!)や、 (2作目に出てくるのだけれど)賞金稼ぎボバ・フェットの傷だらけのスーツ。 スターウオーズが存在しなければ、 『ブレードランナー』や『トータルリコール』などアウトローな雰囲気たっぷりのSF映画は実現しなかっただろう。
もうひとつは、スターウオーズの物語やキャラクターのルーツが日本映画に認められること。 とくに黒沢明の影響は大きく、 R2-D2とC3POのコンビの元ネタは『隠し砦の三悪人』の千秋実と藤原釜足の百姓コンビであるのはあまりにも有名。 高名な映画批評家の指摘によると、ルーカスやスピルバーグの世代の映画青年は、 手本となる映画作家がいわゆるレッドパージの犠牲(ジョセフ・ロージー、ロバート・オルドリッチなどが有名)になり放逐されてしまい、 日本映画に範を求めざる負えなくなったという。その代表作として『スターウオーズ』はあるといえる。

ぼくの手元には、 『帝国の逆襲』公開時のジョージ・ルーカスのインタビュー記事(『ロッキンオン』の1980年9月号)がある。 読み直してみると、スターウオーズとは、映画青年が無知でカネのことしか頭にない映画会社と闘いつつ作り上げた、 夢のインディーズムービーだったことがよくわかる。 『大地震』とか『タワーリングインフェルノ』とか(もはや誰も知らないだろうな...笑)、 メジャースタジオが利潤追求のために製作したスペクタクル映画とは根本的に違うのである。 スピルバーグの『未知との遭遇』もそうだけど、 才能ある青年がイマジネーションを無邪気にスクリーンにぶつけた爽快感が横溢しているのである。

新3部作は、これからどういう評価が残るのだろう。

ぼくは3作品を見て(というか、つきあって)、これはムービーだろうかという疑義を最後まで捨てきれなかった。 映像も音も迫力満点で、アイデアにあふれているが、記憶に残るようなものがない。ただただ派手なだけ。 キャラクターにも人間臭さが消え、宇宙都市も『鉄腕アトム』や『火の鳥』に出てきそうなつるつるした感じのものに変わった。 結果、どこに感情移入していいのかわからない。すぐれたデジタルコンテンツであることは疑いようがないが、映画館に足をはこんだ以上見せてくれるのはムービーでなければならない...。

唯一(皮肉でもなんでもなく)まっとうに評価できるのが、新3部作でもあのスターウオーズ・ファンファーレが高らかに鳴り響いたこと。 あのファンファーレは、 実は映画の前に流れるおなじみの20世紀フォックス・ファンファーレ(1935年の作曲)と同じ変ロ長調で書かれている。 20世紀フォックス・ファンファーレを作曲したのはアルフレッド・ニューマンという映画史に名を残す映画音楽作曲家だ。 ジョン・ウイリアムスはハリウッドでは彼の弟子筋にあたり、スターウオーズファンファーレは、 フル・オーケストラを使った華麗なスコアが特徴だった師匠(と、往年のハリウッド黄金時代)をあきらかに意識した、オマージュに他ならないと思う。

あれだけデジタル化にこだわるルーカスが、 徹底してフル・オーケストラのアナログサウンドにこだわるのは面白い。 最先端のデジタルコンテンツに、ハリウッド黄金時代の残照がちらちらと輝いてみえるのは理屈でかんがえれば奇妙だが、至福のひとときではある。


「映画瓦版」
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by thatness | 2005-09-11 00:59 | 映画

『HERO』にスペクタクルの原点を見る

チャン・イーモウの『HERO』をDVDで見た。

中国、秦の始皇帝の命を狙う3人の刺客と、もう一人の武芸者の物語。 黒澤明の『羅生門』ではないが、回想形式で進む物語は二転三転して飽きさせない。 しかも、ハリウッドがしばしば製作する騎士道もののように、ロマンス主体の展開にはならず、 物語はあくまで説話的で節度を保っている。結末も、史実を壊さず流れにも逆らわない、いい終わり方だなあと思う。

そして、なにより感心したのは、映画の原点ともいうべきスペクタクル性を徹底的に追求していることであった。

映画を見る楽しみのひとつに、スクリーンに展開する人やモノ、天候などのリアリズムや運動性を生々しく感受するということがある。 「質感」の快楽である。そしてぼくにとって、「質感」こそが映画のスペクタクルである。 なにも派手なアクションシーンばかりがスペクタクルではないと思う。 女優さんの顔をクローズアップがあって、そこに生々しい肌の息使いが感じられたら、それもまた見事なスペクタクルである。 文学や音楽にはない、映画だけに表現できる領域といえるだろう。

たとえば、無名(ジェット・リー)が長空(ドニー・イエン)に挑む場面で出てきた、水に濡れた碁盤。 あの滴と、石の碁盤にはねる音の見事さ。見ている側まで濡れているような気分にならなかったか。 過剰な湿気と、水滴のリズムが、真剣勝負の緊張を盛り上げているのだけど、 水滴を落とすタイミング、音の大きさ、実に計算がゆきとどいている。一度見たら、忘れられなくなる。

あと、何度も出てくる立ち回りの場面での剣と剣がぶつかり合い、 こすれ合う時の音やしなり方、地面に突き刺さるときのドシッという音。 こういうのも素晴らしい。まさに鉄のリアルな質感がしなかったか。

『HERO』といえばワイヤーアクションをすぐに思い浮かべるだろうけれど、ほんとうにすごいのは 飛び上がって(紙芝居のようにうすっぺらな)平行移動する残剣(トニー・レオン)や飛雪(マギー・チャン)ではない。 始皇帝の前でゆらめく蝋燭の炎の運動性であり、整然とした動きで趙国に迫る秦軍であり、 始皇帝の立ち回りで落下する黄色い布のぶよぶよとしたシワなのである。

あらためていうまでもないけど、映画においては、雪をそのまま撮っても雪には見えない。 フィルム感度が低かった時代では、雪の代わりに紙吹雪を使ったし、降らせる密度とタイミングにリアリズムを追求した。 紙吹雪は消えたけれど、雪をそれらしく見せるために照明や光量に神経を使うのはいまも同じである。 映画の質はそこで決まるのではないかと、思う。

残念なことに、映画大国アメリカで、この(古い意味での)スペクタクルに神経を使った映画がほとんど見られない。

『スターウオーズ』『マトリックス』『スパイダーマン』...。たしかに、素晴らしいですよ。 クリエイティヴです。これど、これらはみな、質感の映画というよりは、まずキャラクターありきの映画である。 投下した莫大な資金を回収するために、とにもかくにも売れまくること、そのため、 いかに魅力的で万人にウケるキャラクターを作り上げるかに知恵をしぼる。 世界の映画市場を独占し続けるために、常にあたらしく、新鮮なキャラクターを生みだし続けなければならない。

その点、中国映画は、製作に「遊び」が出来るのである。たぶん。

しかも彼らには、ハリウッドというチャレンジすべき怪物がいる。 アメリカがやっていないこと、やれないことをやってやろうじゃないか、という気概と闘争心が『HERO』には横溢している。
ワイヤーアクションが『マトリックス』であるように、 趙国への攻撃場面はジョン・フォード(あるいは先輩格のチャン・イーモウ)への、 始皇帝の立ち回りは明らかにベルトルッチ(クリストファー・ドイル的にはストラーロ...)への挑戦である。 オリジナリティが金科玉条のハリウッドの感覚からすると、実にうさん臭いアイデア盗用とうつるだろう。 しかし、これだけのものを見せられると、いいんじゃない、面白いんだし、というぶっちゃげ感にとらわれてしまう。

当分、中国映画の勢いは止まらないだろう。 『HERO』は二千年以上も昔の物語である。だだっぴろい部屋に一人孤独に座る始皇帝を見つつ、 中国にはまだまだ無尽蔵のキャラクターと物語があるな、と感じ入った。 ネタ切れに苦しんでいるアメリカ映画のバックボーン、アングロサクソン文化とそのスケールを比べてみるといい。

中国映画がハリウッドを制して世界市場を征服することは、中国語が英語に勝てないように絶対ないだろうが、 われわれ日本人が、もうハリウッド映画なんていらないよ、こっちが面白いもん、という日は来るかもしれない。 『HERO』は、そんな(遠くない)未来を予感させてくれる映画でした。
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by thatness | 2004-09-13 15:19 | 映画