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カテゴリ:書物( 9 )


世界を還元する力〜原田洋治郎詩集『生命』

原田洋治郎くんとは1980年に知りあった。ニーチェとローリングストーンズが好きで、美術や文学にも詳しかった彼にはいろんな事を教えてもらった。 以後、交友関係は現在に至る。

その時すでに、彼はすでに完成度の高い詩を書いていた。もっとも当時のぼくには、彼の作品を読み取る力は全然なかったのだが...。 ある時、作品の感想を求められ、「分かり易すぎるね」と間抜けなコメントをしてまったのをいまでも覚えている。 象徴主義の文学やシュールレアリスムが大好きだったぼくは、平易な言葉で書かれているというだけで、ポエジーがないと決めつけてしまっていたのだ...。 唯一の救いは、「なんとなく、大岡信の世界を感じる」と言ったら、とてもよろこんでくれたこと。 彼は大岡さんの詩が気に入っていて、そういえば誘われて講演会に行ったこともあった。 原田くんは楽屋に入り込み、ルーズリーフの切れ端に詩人のサインをもらったのだったが、まだ持っているかな。

さて、詩集『生命』。

この詩集は、原田くんが20代のころから現在まで書きつづけた作品の中から、本人が自選して収録したものである。 知りあった当初から「年を取っても詩を書きつづけられる人間はすごい」とよく言っていたが、果たしてそれは彼自身のことになった。 ぼくはといえば(10代の中ごろからしばらく散文や詩を書いていたが)早々に創作を放棄し、30代後半に再開してふたたび休眠期に入ろうとしている。

彼は書きつづけてきた。しかも、彼自身の知覚の体系というものを持っている。原点となった詩人(大岡信)はいるものの、そこから出発し、 独自の世界を開示しつづけてきた。彼が、彼の人生を生きながら書き、書きながら生きてきた結果である。彼の作品はいま、誰にも似ていない。

原田くんの詩は、いつも平易な風景、日記風の季節感を記述するところからはじまる。 しかし、画家が風景をスケッチして絵を仕上げるようには詩を書かない。 彼の言葉は、画家の筆先でも絵の具でもなく、風景そのものが還元された宇宙的なエネルギーといっていい。

たとえば、原田くんが川について詩を書いたとしよう。 彼はそこに、目の前に川があること、水が流れ、空が広がっていることを、自分の手(視点)で記述しようとはしない。自意識を離れなければけっして見えてこないほんとうの世界を、開示してみせる。 ただただ、川が流れている、それとおなじように自分がそこに存在している、すべてが平等に「生きている」ことのよろこびと神秘を、光や色彩のイメージを駆使して追体験させてくれる。

春爛漫の田舎道で、初夏の公園で、真冬のテニスコートで、彼がその場所、その時にシンクロさせた光や大気、色彩が、 そのままエネルギーとなって言葉へと還元される。どんな平易な風景にも熱と光があり、宇宙がある。宇宙と自己をリンクさせているのが「生命」である。 彼の詩を読むと、ぼくは滝壺のそばで水の飛沫を浴びているような気分になる。 言葉が、身体の細胞のひとつひとつに浸みわたり、癒されるのである。彼の言葉は、生命である。

 ++

生きること
それはこの宇宙の中で
呼吸すること
歌うこと

詩人 それは
生きるために歌うことだ
光を求めて

「生きる」より

 ++

歌うのは誰だろう?
死を前にした老人
世界を新しく歩む人たち
今 生まれてきた子供たち
歌を聞いている人たち
人は歌う時
この世界で生きる勇気を持つ

「詩人」より

++

原田くんはよく、大岡信さんの詩にしばしば出てくる波動というイメージについて語ってくれた。彼自身の知覚で「波動」をつかみ取ること。 その境地に作品を高めるために彼が実践したのは、徹底して言葉を吐き出すことであった。
読書会を主宰したり、さまざまな勉強会や心理学のグループカウンセリングにも積極的にかかわり、自己を、知識を洗いざらい吐き出してしまう。 そして、真空と化した自己に、新鮮な宇宙の息吹を充満させる...。世の中の詩と称するもののほとんどは自意識の発露か自己慰安に過ぎないとするなら、 原田くんの作品は、自己を超えた世界の見え方が開示されているすぐれた達成であるにちがいない。きれいに灰汁抜きされ、透き通ったほんとうの生命のスープが、そこにある。

ハイデガーは、「哲学とは、存在を言葉によって歌うこと」といったそうだが、原田くんは、まったくおなじ仕事のできる本物の詩人だと思う。 ぼくのいうことは決して大袈裟ではない。詩集『生命』を読んでいただければ納得していただけると確信する。

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by thatness | 2006-03-14 23:51 | 書物

原田洋治郎詩集『生命』より

「詩人」

新緑
木々の美しい葉が風の中を揺れている
外から遠く子供たちの声が聞こえる

季節は夏へと変化する
私たちの心も夏へと動く
五月 青空は高く太陽は優しい
歌うのは誰だろう?
死を前にした老人
世界を新しく歩む人たち
今 生まれてきた子供たち
歌を聞いている人たち
人は歌う時
この世界で生きる勇気を持つ

どんな苦しい人生にも意味がある
なぜなら この世界には歌があるから
遠くから鳥たちのさえずりが
聞こえる
地球のどこかから


「街」

そこは街である
パズルを解くように私は歩いた
光の方向によってすべての影が変わる
不定形の営みに生は姿を映す

冷たい風の中を白い翼が舞った
海上のはるかに岸辺が見える
陽がのぼるころ
耳にかすかな響き
祈るように
または呼ぶように歌っている

時は静けさに目ざめ
空の色が変わる
そこは街である
朝 すべてのものが
動きはじめる


「秋」

空の球形のドームが落ちてくる
海の牙がくだけちる
光は遠のく
僕は歩みをやめ 樹の色は変わる
時をゆく箱船に乗れ この星を離れ
太陽系を巡り 青い夏の地平に出る
時計はひびわれた謎だ
そこは 時の扉の外
波の音に響け 僕の心臓の鼓動
夏の色が変わる 冬の風が来る前に
黄金色の空高く 跳び立つ
僕は虫にすぎない
にぎりつぶされた石の中から輝くサファイア
赤い樹木の葉が地上をつつむ
夜が来る前に狩りにいく
冷たい月の光は何も言わない空間にかかる
冬の風が来る前に行くべき所がある
時の弓をひけ 光の矢がゆく先


「12月」

北風が吹きぬけて
アスファルトの上を木の葉が舞っている
手のひらをさらさらとすべっていく光
苛立ちと空しさ
街角の白い炎に消えた戦いの記憶
歳月の流れ

僕らの歩く路上の鈍い光と遠い風の予感
僕らの空は低くたれこめた冬の色
走りはじめている人々はいるか?
わが身を燃やして飛び続けているものはいるか?

新しい朝 光に包まれて 僕らは
この空を両手ひろげてうけとめる


原田洋治郎プロフィール
++
1957年、大分県臼杵市生まれ。現在豊後大野市在住。
執筆活動に励む傍ら、画家として現在までにパルコギャラリーなどで個展を4回開催し、大分県美術展(アンデパンダン)には2回出品している。 その他「MY詩集」同人、日本トランスパーソナル学会所属、アムネスティ・インターナショナル会員など幅広く活躍。 心の対話者(国際コミュニオン学会)の資格を持ち、夢は美術教室を開くこと。

コスモス文学1991年1月号、エッセイの部佳作「言葉とメディテーション」
大分県短文学大会、現代詩の部佳作「サイ・パワー」
大分県短文学大会、現代詩の部佳作「詩人」

(上記作品、プロフィールの無断転載、引用はご遠慮ください)

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by thatness | 2006-03-10 23:56 | 書物

テリー・ケイ『白い犬とワルツを』

古本屋さんに足を運ぶと、流行おくれになったベストセラー本が束になって並んでいたりする。 たとえば、養老先生の『バカの壁』とか...笑。いちど目を通したいなと思いつつも、 100円均一コーナーにずらりと並んでいたりするのをみるとなんだかもの哀しく、いまいち手を取る気にならない。

テリー・ケイの『白い犬とワルツを』(新潮文庫)も、「ブックオフ」や「本だらけ」の定番商品ではなかろうか。 以前からよくみかけていたのだけれど、帯に「痛いほど胸をゆさぶる大人の童話」などと恥ずかしいコピーがあったりすると、手に取る気が全然しない。 でも、ものによって偏見をのりこえて読んだほうがいい小説もあるのだ。 これはすばらしかった...。亡くなった安原顕(ヤスケンといったほうがなじみ深いのだが)さんは、この小説を読んだだろうか。気になる。

苗木農家を営んできた老人サムは、最愛の妻コウラに突然先立たれてしまう。 足腰が弱り、自由に歩行もできない父親を子どもたちは心配し、生活を共にするようにすすめるが、サムは独りで余生を送る決断をする。 世話を焼いてくれる子どもたちはありがたいが、死ぬまでこの家は守りつづけたい。孤独と、追憶をかみしめつつ不自由な生活を続けていると、 サムのそばに一匹の迷い犬が寄り添いはじめる。これ以上はないというくらい真っ白で、無垢な白い犬。 犬はサム以外の人間にはなかなか姿を見せない。というか、姿を見ることが出来ないのだ。人生の喪失を象徴するかような白い犬と、老人との静かな日々。

物語の語り口がとてもいい。すべてが3人称ではあるが、それぞれのモノローグを追いかけるような文体になっている。 老人サム、愛息ジェイムズ、善良な牧師ハワード、それぞれの心象風景が細やかに描かれている。 そして、日本人には馴染みがうすいアメリカのほんとうのカントリー。田園風景。

映画が好きな方ならみな同意していただけると思うが、この物語の雰囲気は、 デヴィッド・リンチの畢竟の名作『ストレイト・ストーリー』ときわめてよく似ている。 アルヴィン・ストレイトも、この小説のサムがいなかったら生まれなかったのではないか。 もちろん、真偽のほどはリンチに訊かないとわからないが、映画の製作時期と小説の発刊の時期は重なっているので、なんらかの影響はあるだろう...。 ぼくはリンチの『ストレイト・ストーリー』が大好きで、深い思い入れがある。 そのルーツのひとつといっていいこの小説と出会えて、その意味でも幸せだった。

人生とは「道」を知ること。そして、その道を旅すること。
誰がどこでいった言葉か、それとも自分がいま適当に思いついたのか...とにかく『白い犬とワルツを』がおしえてくれるのは、 人生には道というものがあるということだ。

サムは「苗木」を育てて売り生計を立て、妻を愛して家族を作った。 自分自身の人生を、自分の力で最後まで見届けたい、それが彼の願いなのだ。 最期の時は緩慢に、しかしながら確実に近づいてきてサムを苦しめるが、白い犬が水先案内人としてサムの心に光を照れしてくれる。 白い犬は、自分の道を誠実に歩んできた人間への、世界からの贈り物にちがいない。 そして読者ももちろん、サムの人生に深く共感し、その行動にエールを送らずにはいられない。

思うに、どんなに偉業をなしとげたといわれる人間でも、とどのつまりはなにがしかの「苗木を育てる」ことしかできないのでないのだろうか。 ひとりの人間が、天地創造をなし遂げるわけではない。なんらかの発見や創造が、後の世代に受け継がれて花開いていく。何事も積み重ねである。

『夜と霧』のヴィクトール・フランクルの言葉ではないけれど、人は自分自身の人生から問われる問いに答えなければならない。 この世に生まれた役割を、そのひとなりの自由の範囲で探しだし、実現していくこと。 果たしてぼくは、自分の「道」というものがわからない。おそらくほんとうの意味での旅もまだ始まっていないのではないか。 ....まあ、しょうがないや。ただ自分の人生は最期まで自分で見届ける。そんな力が自分にあるかどうかもわからないが、そう思う。

とにかくこの小説は面白かった。お薦めです。
流行おくれかも知れませんが...。
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by thatness | 2006-03-05 22:50 | 書物

リチャード・ブローティガン『アメリカの鱒釣り』

ここ数年、怒濤のようにブローティガンの小説の文庫化が相次いでいる。
もっともスティーヴン・キングのようにものすごい量の作品があるわけではない...あたりまえだけど。 はっきりと把握はしていないが、邦訳でいうと藤本和子さんの翻訳で出版された小説が10冊、いろんな翻訳家の手になる詩集が5冊程度。 しかしながらあのブローティガンである。晶文社や河出書房から出版されていた単行本は入手困難だったので、 やっぱり事件といっていいのかも知れない。

20代後半に、青木日出夫さん訳の『愛のゆくえ』(新潮文庫)を読み心を揺さぶられ、こんな作品で小説家になりたい、 なれるっ...とみごとに勘違いした。30代後半に貯金も底をつき、疲労困憊、身も心もパンクした古タイヤみたくズタボロであったとき、 『チャイナタウンからの葉書』(池澤夏樹訳)という詩集に出会い(レンタルビデオ屋の古書コーナーで100円。300円だったら買えなかった)、 自分でも書きはじめることとなった。世界じゅうにおそらく、ぼくとおなじような男がごまんといるはずである。 ブローティガンに生まれたかったのに、そうじゃなかった。だが...ちょっと待て。 ブローティガンは最期、ピストル自殺を遂げたのではなかったか。彼のように「生きる」なんて、できることじゃないよな。

土曜日から、新潮文庫で再刊された『アメリカの鱒釣り』をちびちびと読みはじめた。面白い。それ以上の言葉が出てこない。

47のちいさな物語は、どれも「アメリカの鱒釣り」についての考察である。 けれどぼくらは(たぶん)最後まで「アメリカの鱒釣り」とは何だったのかわからない...笑。 「アメリカの鱒釣り」という何かがこの世には確実に存在していて、ぼくらの人生とともに地球で踊っているということはわかる。 それが気持ちいい。まるで自分が書いたものを読み返しているみたい、といったら作家に失礼だろうか。 嗚呼、わかる、これわかるぞ...という抗えない感覚に酔うのである。また不幸な勘違いに引きずり込まれそう...苦笑。

日曜日も朝から、空き地の隅っこに腰をおろして『アメリカの鱒釣り』を読む。

いつの間にか愛犬がそばに寄ってきて、『アメリカの鱒釣り』に鼻をなすりつけくんくんと臭いを嗅いでいる。 そういえば、「本」を空き地に持って出たのはこれが初めて。こいつは臆病で甘えん坊だが、好奇心の強いやつ。 ほどなくしてオスワリの姿勢をとり、お目当てのものから目が離せなくなっている。尻尾なんかもふったりして。 ...をいをい、食い物と勘違いしていないかい?  ためしに「マテ」をしばらくさせてから、「ヨシ」と云うと案の定...パクついてきた。 ぷぷ。

そんなわけで、ぼくの『アメリカの鱒釣り』には愛犬の歯形がついている。
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by thatness | 2005-11-13 23:30 | 書物

有と無のあいだで

玄侑宗久さんの『中陰の花』(文春文庫)。

2001年に玄侑さんがこの小説で芥川賞を受賞された頃、ぼくはまだ仏教に深く共感するというところまでいってなくて、 法衣に袈裟をつけ授賞式に臨んだ姿はなんとも胡散臭かった。 僧侶というと、世襲でなんの苦労もなく財産を相続し(実はこれ、宗派によって異なるらしい。この小説ではじめて知った)、 税金もろくに払わず、檀家まわりを適当にして、あとは絵を描いたりジャズを演奏したり好きなことばっかりしている連中ではないか。 どうせ檀家まわりの余暇に好きなだけ読書してのんびり書いて...あれよあれよと有名人。

自分で書いていて情けなくなる、なんともバチあたりの第一印象である。しかしテレビでたびたび拝見するときの姿勢の美しさ、 決して早口にならず、まるでそのまま文字がイメージできるかのようなわかりやすい話しぶりに好感を持ち、 専門道場でのおもしろ体験談や、『禅的生活』、『私だけの仏教』など(読みごたえたっぷり)の新書から手をつけ、 小説も愛読するようになった。
岩波文庫の原始仏典や、鈴木大拙翁の随筆も好きだが、ぼくの仏教へのいちばんの水先案内人は彼だったかも知れない。

仏教、それはとどのつまり「人間は死んだらどうなるのか?」 「生きる苦しみはどうして消えないか?」という命題に応えることだろう...。 しかし、死は生きているかぎりわかることではない。死者のためというより、 生き残った人のための「要は気持ちの落ち着かせどころだと禅宗では考えている」のだそうだ。 けれど、人は死んだらどうなるのか、納得のいく世界観を聞きたいのが人情である。けれど、これがなかなかむずかしい。

「なあなあ、人が死にはったら、地獄に行ったり極楽に行ったり、ほんまにあるんやろか?」
「知らん」
「知らんて、あんた和尚さんやろ。どない言うてはんの、檀家さんに」
「そりゃあ相手次第や。極楽行こうと思って一所懸命生きてる人の邪魔はしないけど、今の世の中、 地獄へ行くぞって脅しても誰も聞いてくれないよ」
「せやけど訊かれるやろ、極楽はあるか、ないかって」
「たまにね」
「どない答えてんの」
「だから相手次第や。信じれば、あるんや。信じられなければ、ない」

作中の、臨済宗の僧侶則道と妻圭子の会話である。

科学万能の先進国日本で、西方浄土や輪廻転生をほんとうに信じる人がいるのかどうか。 その一方で、死別や病の苦しみに応えるため霊能者、スピリチュアルアドバイザーと呼ばれる人が有名無名を問わず、ごまんといて活動している。 完全なインチキもあれば、ほんとうに「みえる」人もいないわけではないだろう。 宗教家は大変な時代を生きているのだ(...という自覚のないお坊様も多いだろうけど)。
則道は、自らの死期を預言して逝ったおがみやウメさん、新興宗教に入信して「見性(悟り)」を得たと断言する檀家の徳さんに、 正面からぶつかることが出来ない。神通力があるわけでもなく、悟りもないからだ。 ただエピソードを受けいれ、狂言回しにのように振り回されている。

頼りなくみえるけれど、そもそも、あの世があるのかないのか、言えないのではなく言わないのが釈尊であった。 作中、則道は釈尊が弟子に語ったエピソードを反芻する。 「お前たちのすることは、目の前に矢が刺さって苦しむ人の、その矢を抜いてあげることではないか。 けっしてその矢が、どこから飛んできたかを詮索することではないのだ」と。

一見すれば、これは現代の医療現場とほとんどおなじというか、シンプルな合理的主義そのものである。 わからないものは、わからないと切って捨てるのだから。しかし釈尊には「涅槃」や「解脱」の境地という切り札がある。 禅なら「見性(悟り)」...だろうか。生きているものに死の世界はわからないにしても、それらを超えて見えるまことの世界がある。 凡夫にはこれ以上のことはいえないけれど、その存在を信じることで、生きる意味や価値が変化するということはあるに違いない。 そこを自分が受け入れて生きるかどうか、なのである。

中陰とは中有ともいい、亡くなった人が成仏するまでの(広辞苑によれば次の生を得るまでの )期間、一般的にいえば四十九日のことを指す。玄侑さんによれば、これは「有」と「無」の中間の在り方、 あるいは「陽」と「陰」のどちらでもあるような在り方であるという。 物理学的でいうと、質量とエネルギーのどちらでもあるような状態になるのだろうか。いずれにしろ常識ではかんがえられない世界。

実は則道の妻圭子は4年前に子どもを流産していて、その体験が彼女を縛りつづけている。 しかし、則道には彼女の気持ちがまったくわかっていなかった。 中陰の時空をさまよっている我が子のために、圭子はとんでもないものを拵えていて則道は驚愕する。 それは超自然的な現象でも、霊的な存在でもない。しかし、まさに中陰...。 則道には、中陰に咲いた花としかいいようがないものだった。
読者にもまたその瞬間、生死を超えた広大な世界がほんのすこし、微風が頬を撫でるように見える(...たぶん)。

そういえば、以前読んだ禅の解説書にこういう一文があった。「大海の波浪は是れ常有にも非ず、常非にも非ざるごとし」 「水の中を尋ねても、見よ、波はなし、されども波は水よりぞたつ」

小さい波は、大きい波を見ていつも肩身の狭い思いをしていた。おなじな波なのに、 どうしてこんなに大きさが違うのか...。すると、大きい波は小さい波に「自分の本体を見ていない」という。 「波は君の仮の姿で、本体は水なのだ」「君は自分の本体に気がついたとき、もう波の形に惑わされることはない」

ひとつの波は、いうまでもなくひとりひとりの人生のことだ。波の本体に水というものがあるなら、 波が崩れて消滅しても水は水として在りつづける。人生は水の流れであり、パターンにすぎない...。 しかし、波は波であるかぎり、波として生き続けるカルマを背負っているわけで、自分が波であることから逃れることは出来ない。 波で在りつつ、水であることに気がついたならば実に深い世界が広がるはずだ。

このエピソードには腑に落ちるところがあり、ぼくは「悟り」というとまずこのたとえを思い浮かべる。 その納得は「悟り」そのものでは全然ないけれど、波としての自分、本体としての水とはなんなのか、 そういう存在の在り様は信じられそうだと思っている。水は「信じれば、ある」。

仏教は、これからも追いかけようと思う。

玄有宗久さんの著作では、『中陰の花』にかぎらないが、最新の素粒子論や相対性理論、大脳生理学や現代哲学まで、 仏教以外の知の蓄積がたくさん引用されている。それでもいわゆるニューエイジ系というか、スピリチュアル系のうさん臭さがいのは、 臨済宗の専門道場で厳しい修行を積んだ経験に立ち、都合のいい憶測や幻覚にまどわされないからだ。 玄侑さんは、自分は悟ってはいないと明言している。だから「みえる」とか「わかる」とかんたんには言わない。 身技両面で教養のある人なんだと思う。

仏教が過去形の精神文化ではなく、その全貌をあらわし「この世」でほんとうに力を発揮するのはこれからかも知れない。 「一歩先」の未来を感じさせる『中陰の花』なのであった。
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by thatness | 2005-08-23 17:57 | 書物

「俺」

谷郁雄さんのポエトリーブック(詩と対談集)『旅の途中』のなかに、詩人某のこんな発言をみつけた。引用する。
「俺、詩人って野球のピッチャーのようなものだと思ってるんですよ。ピッチャーというのはみんな同じボールを投げるのに、 スピードも違えば変化球も違うし、球種も全部違う。 だけどルールを守って投げてるし同じボールなんですよ。 詩人もそうで、同じ日本語を書いても、速さが違って、変化球も違うし、フォームまで違うじゃないですか。 ある時期からは、それをすごくイメージしてやってるんですね」

野球は、言葉と似ている...かも知れない。 生活習慣のようにおぼえてしまっているので意識することはないが、 野球には緻密なルールがある。 スリーバントを失敗したらアウト、ファールボールは何度打ってもよいが、 フライを捕球されたらアウト、満塁でランナーが本塁に突っ込んできた場合はノータッチでアウトだが、 塁が埋まっていないときはタッチプレー...などなど。 ややこしいが、ルールそれぞれを吟味してみると無駄なものはひとつもない。 どれか一つでも欠けると野球というゲームが成立しなくなるのでびっくりする。 ルールというものは面白いとおもう。

「問題はスピードなんです。つまり何キロ出てるかが問題で、130キロ以下だったらプロにはなれない。 ....たとえば富士山を見て詩を作りたいとしたら、 富士山をいかにアウトにとるってことがそいつの持ち味じゃないですか。 それを三振なのか、ピッチャーフライなのか、バットを折るのか。わざとボール球を振らすこともできるわけですよ」

紙やパソコンに向かう前から「富士山」がはっきりと見えている詩人はあんまりいないと思うが...笑、 相手が強打者であればあるほど、球を投げるほうにも力量が求められる、ということはいえるかも知れない。 力のあるピッチャーほど自分の持ち味があることも事実で、 持ち味を支えているのはパワーよりも繊細な感受性であることも興味深い。 ぼくはどんなピッチャーになれるだろうか。

「ボールには縫い目があるでしょ。だから「俺」という字にも縫い目があって、 その縫い目に「俺」に対してどう握るかによって回転が変わると思ってるんですよ」

うまいことをいうなあ。

ぼくはこの谷郁雄さんの対談相手、三代目魚武屋濱田成夫なんだけど、 どうしても好きになれない詩人であった。 詩集のタイトル(『君が前の彼氏としたキスの回数なんて三日で抜いてやるぜ』など) がまずついていけないし、 作品といえば徹底的に自分を褒めちぎる自信過剰の大安売りのようなものばかり。 これほど人生に鈍感な人間の言葉が詩人と売り出され、売れている。なんでやねん、であった。

けれどこいつは、ただ者ではないぞ。やっぱり。
「俺」をどうにぎるかでボール(作品)の回転を変えるという発想。非凡である。それは単に作品のスタイルを変えるということではない。 いくつもの真実の自分を持って生きているということなのではないか。 彼の作品が自信過剰の大安売りにしか読めなかったのは、読み手の自分に、複数の「俺」がなかったからかも知れないのだ。

「俺」というボール(縫い目)はひとつだが、それは言葉の「俺」でしかない。投げられた「俺」が俺なのだ。

「ナックルっていうのがあって、ナックルは風によって落ちる場所が違うんですよ。 ...風によって、落ちる場所が違う言葉を作りたいって思ったりする。そのためには言葉の中に風を吹かさなくちゃいけない」
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by thatness | 2005-04-29 15:31 | 書物

『そっと耳を澄ませば』三宮麻由子

昨年の冬、書店で偶然みつけた本である。
第一印象は、平凡なタイトルだな...ということ。 けれど、装幀の写真の上にあしらわれているリズミカルな円や線のデザインには見覚えがある。 一昨年、惜しくも亡くなられた作曲家にしてサウンドスケープの提唱者、吉村弘さんの図形楽譜であった。

思わず本を手に取り、活字に目を走らせる。

著者の三宮麻由子さんはアーチストでも、音楽家でもなかった。 東京の外資系通信社に勤務し、 翻訳の仕事をされているらしい。 内容は、参加している句会やバードウオッチング、山歩き、アメリカ留学。 日々の生活の中で拾い集めた音や季節の気配、身辺雑記を書き連ねたいわゆる歳時記であるけれど、 外界にのばしたアンテナの感度がものすごく高い。
たとえば、雨。梅雨のどしゃぶりの日、彼女は傘の内側に掌を当ててみる。 すると掌に「妖精たちが宝石をばらまいたような」まるい雨粒の感触を感じるという。 雨が水の粒であるということは凡夫にも理解できるが、それを体感できるとはかんがえられないし、 その感触を楽しもうなどとという発想などまったく浮かばない。 しかもその感触は、彼女によれば梅雨時の雨にだけ可能で、 夏の夕立は雨足が激しすぎて雨粒がすぐにつぶれる、 秋や冬の雨粒は風にあおられて傘にまっすぐに落ちてこないのだという。 「空が魔法の箱になって、恐ろしい雨をえもいわれぬ滴(しずく)の精に瞬間させる瞬間」。 それが彼女にとっての梅雨なのである。

この独創的で、きらめくような季節感は何だろう。 天賦の才としか言いようがないとしても、その正体は何なのだろう。 書店で斜め読みしているとき、文章に「晴眼者」という言葉がしばしば出てくるのに気づき、 ようやく謎がとけてきた。

そう。三宮麻由子さんは視力障害者なのである。 読書は点字、書き物はパソコンの画面読み取りソフト、外出には白丈(はくじょう)がかかせない。 晴眼者(という言葉の存在を、この本で初めて知りました...恥ずかしながら) が無意味なノイズとして無視する街の喧騒に耳をかたむけ、 風向き、気温や湿度にも気を配りながら、外を歩かなければならない。仕事も同じ。 しかし、彼女が不幸にして放り込まれた世界は絶望の闇ではなかったようだ。 というより、 むしろ光が無いゆえに見えてくるこの世界の豊かさがある。夜空に散らばる星々にまったく新しい線を引き、 自由奔放に星座を描いてみるような、 世界を日々発見するよろこびにあふれている。

もちろんこの世の中、マイノリティの方々にとってはまだまだ不便な社会。 盲目であることは生活に不便はともなうが、 三宮さんによると晴眼者が想像するような機能の欠落した世界ではないのだという。 そのことを彼女は、盲人に意識の闇はあるが、光の闇はないといういい方で表現する。 そもそも俗に障害者というが、それは誤りで社会の側に障害がある、というのが正しいはず。 ハンググライダーで鳥のように空を飛べる人がいるように、音と触覚だけをたよりに世界を鮮やかに知覚する人がいる。 それと同じように、世界にはさまざまな見え方があり、 その世界を生きる人からの贈り物としてこの本は読まれるべきなのだろう。

どのページを開いても宝石のような言葉があふれてくるのだが、 とりわけはっとさせられたのが、次のエピソード。小学校の頃、理科の授業。 動物を学習するためにネズミやネコなどさまざまな剥製に触れたときに、彼女はこんな印象を持ったという。

「剥製はもちろんどれも硬くて動かない。どんなにフワフワな毛が復元されていても、 生きているときの表情が理解できなかったせいか、私にはそれが動物だという実感がほとんどなかった。 剥製とは何か、頭ではわかっていても、硬いぬいぐるみみたいなものと、 温かくてすぐに手から逃げていってしまうネコとかウサギとが、 どうしても結びつかなかった」(「モグラとの遭遇」)

われわれ晴眼者は、剥製を見ても(触れても)、こういう印象は持てないのではないか。 「これは何ですか」と訊かれてもまず間違いなく「ネズミ、ネコ」と答えるに違いない。 先んじて「剥製です」と言えることはないだろう。剥製が生命を奪われたモノという事実よりも、 元はネズミやネコであったという知識のほうが先んじてしまうに違いないのだ。 われわれにとって生命とは、 口でどんなに偉そうなことを言っても、 もはや生々しい体験ではなくなっている。頭でおぼえた観念になっている。

ここではっきりとわかった。
そっと「耳」を澄まして、彼女がとらえるのは、なによりまず生命の囁き、または自分が生きていることを自覚させてくれる「音」なのだ。

カナダの作曲家で『世界の調律』の著者、マリー・シェイファーは騒音を定義して「われわれが無視することをおぼえた音」といった。 なぜなら、耳は目のように閉じることができない。不要な音は無視することができるだけで、それが騒音と呼ばれるわけだ。 心地よい音が欲しいときは、音楽を聴いてそのなかに閉じこもればいい。 かくして、騒音まみれのわれわれ先進国都市生活者は、騒音を無視する代償として、 音をつうじて得られるはずの豊かな感受性、生命に共感する力を失ってしまったのである。 われわれの耳は開いているが、ほんとうは閉じている。

吉村弘さん、マリー・シェイファーらは、環境音楽の作曲、 サウンドスケープの設計という仕事をつうじて、 耳本来の力を取り戻そうと努力した音楽家だ。 しかし三宮さんの本を読んでいると、「世界の調律」がなにも作曲家にしか立ち入れない聖域ではないことをおしえられた。 われわれは、傘をとおして雨粒に触れたわけでもなく、動物の剥製に触れたわけでもない。 ただ書かれた言葉を読んだにすぎないという事実に、もっとおどろく必要がある。 言葉でなにかを拵えようとするものにとって、 ほんとうの希望がぎっしり詰まっている本。 それが『そっと耳を澄ませば』である。

5年に1冊出会えるかどうかの素晴らしい本。
超オススメなので、皆さま是非書店で手に取ってみてください。
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by thatness | 2005-03-22 15:27 | 書物

庄野潤三『ピアノの音』

数年前のこと。 郊外の古本屋で、ばら売りされていた新潮の日本文学全集の中から、 石川淳と安岡章太郎、庄野潤三の作品集をそれぞれを買った。 一冊500円くらいだったと思う。 もちろんいまも手元にはあるが、短編ひとつ読まれることもなく本棚に詰め込まれすっかり持ち主に忘れられている。 まるで、海中に沈められたコンクリートブロックである。

ところが昨年末、書店で平積みされている『ピアノの音』(講談社文芸文庫)が目に止まった。 シンプルで上品な装幀と、短旋律の宗教音楽を聴くような美しい文体に目を奪われ、購入。年明けから読みはじめた。
内容はというと、一見すると小説家の身辺雑記なのである。 小説家は小田急小田原線生田あたりの小高い丘に妻と二人で暮らしている。

3人の子供たちそれぞれ独立し、家を出た。 実家は子供たちに「山の上」と通称され、頻繁に往き来があるが、老夫婦の日常生活は雲が流れていくようにゆっくりと流れていく。 「夜、ジップ一声も吠えない。朝、起きたとき、ジップがいるのを忘れていた。 小屋の中に入れておいたタオルケットを一枚、外に張り出してあった。その上で寝たのか、 それともくつぬぎ(ここがジップは好きだ)にのせておいたまるいわらマットの上で寝たのか、わからない。 朝、雨戸をあけたときには、くつぬぎの上に坐っていた。」180頁

「ブローディア。妻は庭にブローディアの芽がいくつか、ひょろひょろと出ているのを見つけた。 飢えた覚えは無いから、プランターのブローディアを植えかえするときに、 土を捨てた中にブローディアの球根が混じっていたのだろうか。掘り返したら、 指の先くらいの小さな球根が出て来たのを、前にゼラニウムの入っていた植木鉢に植えたという。 よろこんでいる。」270頁

『ピアノの音』では、こういうけれん味のカケラも無い生活描写がえんえん300頁も(ただし、見事に構成されている。 だらだらしているわけではない、念のため)つづく。当然読書のピッチは上がらない。 ぼくの場合で3週間もかかってしまった。それでも面白くて仕方がない。

この小説では作家の内面がまったくいいほど聞こえてこない。淡々とした事実の描写(あるいは羅列)がつづく。 素の文章そのものだけが、ある。
小説に限らないだろうけど、文章を書くという行為には、生きているこの世界での自己実現、 あるいは自己の再構成への欲求みたいなものが大なり小なり入り込んでしまうものと思う。 登場人物の誰かが、土地や物語そのものが、書き手の分身となり、自己を内面的にアップデートしたり慰安するのに一役買う。
ところがこの作品では、作家の内面は(どういうプロセスを経てこうなのか、他の作品を読んだことがないのでわからないけど) 見事に削ぎ落とされている。語り手たる庄野潤三はいるが、その中にはいってゆけない。 読み進むうちに、自分が小説世界を空気のように偏在して行ったり来たりしているのを感じる。 ある場面では小説家の、ある場面では孫のフーちゃんのお喋り(具体的にはほとんど出てこないけれど)に耳をかたむける。 それがとても気持ちいい。

人間は自分の過去に記憶されている存在だ。 その土台の上、未来を了解し、自分自身のゲシュタルトを成立させて生きている。 けれど『ピアノの音』ではありのままの現在が、ただ清冽に流れていく。 それは、孫のフーちゃんが書いたお習字のことば「安心」と呼ぶにふさわしい世界だ。

本棚で死蔵されていた庄野潤三集。今年中にはひも解かれ愛読書となるだろう...たぶん。 まだ海中に沈んではいるけれど、ブイはくくりつけてある。いつでも机上に引き揚げられるように。
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by thatness | 2005-02-06 15:25 | 書物

『詩のこころを読む』再読

茨木のり子氏の『詩のこころを読む』(岩波ジュニア新書)を再読した。
とっても、とってもいい本なのである。

この本でぼくは吉野弘氏の「I was born」を知ったし、なんとなく敬遠していた大岡信氏の作品がわかるようになった。 まずはすぐれた現代詩への手引き書なのだけれど、それ以上に、自分が何を書いていいのかわからないとき、 どうやって生きていいのか迷ったとき、この本の詩と茨木さんの解説にはずいぶん助けられたように思う。 全体は、以下の5つの章からなる。

生まれて
恋唄
生きるじたばた

別れ

誰もが経験する人生のそれぞれの場面で、詩人がどのようにインスピレーションを得て、書いてきたのか。 さらには、書かれた詩がどのように時代にフィードバックされ、読み継がれるようになったか。 ひとつの人生を追いかるようにして、戦後詩の代表作を読むことができるのがいい。 その楽しさは、おそらく詩を全然読んだことのない人にももたらされるのではないか。

面白いのは、5つの章のなかで、「生きるじたばた」の章が圧倒的に分量が多い事。構成上そうしたというより、 選ばれた作品が圧倒的にここに収まってしまったという感じ。恋唄にあふれているのは、 テレビドラマとポップミュージックの世界だけで、実人生は誰しもそうではないはず。 人生の峠を登りつめて、風景を俯瞰できるのは、長い上り坂との格闘があったからだ。

じたばたしているのは自分だけじゃない。詩を書く人も、書かない人も、 自分なりの生きがいと自由を獲得するために日々を生きている。しっかり生きて、想像力に誇りを持つことができれば、 言葉のほうから贈り物をくれるはずだ。 この本を読むたびに、そう確信する。

たとえば、この本に紹介されている詩のなかで一番好きな、濱口國雄氏の「便所掃除」。 鉄道会社の職員として、日々はたらいたなかから生まれた宝石のような言葉。

便所を美しくする娘は
美しい子供をうむ といった母を思い出します
僕は男です
美しい妻に会えるかも知れません

(濱口國雄 「便所掃除」)


こういう見事なフレーズが、てらいなく書けるようになりたいと思う。
そのためには、もっともっとじたばたしなければ。自分のためにだけではない。 家族や自分が愛した人のために。じたばたして、正直に生きて、心は磨かれていく。間違いない。 この本で出会った詩の数々が、そう語りかけてくるのだ。
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by thatness | 2004-07-30 15:16 | 書物