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カテゴリ:ある日( 50 )


月のリズムを!

24日は新月だったそうだ。
先日長崎の「月の美術館」を訪問したとき、館長のヤマサキユズルさんから、新しいことを始めたいのなら新月を選ぶと善い、という話をうかがった。欧米では、結婚式の日取りは新月にすることが多いそうだ。...知らなかった。美術館で企画する個展も、新月の前後からスタートするようにスケジュールを組んでいらっしゃるとのこと。

そういえば、ウミガメが産卵のために上陸するのも、新月の晩ではなかったか。夕方になると散歩の催促でうるさい愛犬も、きのうと今日はおとなしかった。満月の夜はあきらかに興奮気味なるので、月のリズムというのはほんとうにあるのかも知れない。

ぼく自身は、月のリズムと心身のコンディションの因果関係について自覚するところはあまりない。占星術のコラムはけっこう気にするくせに、星座の位置関係や惑星の運行についてほとんど興味を持てない天体音痴である。因果関係があっても、気がつくセンスに欠けていたのだと思う。

人間の文化的なレベルから地球や宇宙空間のレベルにいたるまで、世界にはさまざまなリズムにあふれている。それらのすべてが人間の心身に善い影響をもたらすとはかぎらない。

そもそも、世の中にこうも紛争が多いのは、その民族がほんとうにフィットする暦を使えてないからじゃないか、ということも想像できる。日本や中国は、もともとは太陰暦で時をリズムを得ていた。イスラム世界ではいまも太陰暦は重要だけど、この時代に太陽暦は無視できないわけで、文化的な抑圧を感じながら「二重暦」で生活しているに違いない。

地球上に複数の暦があってもいいじゃないか。
世の中、なんでも互換性を追求するから、対立が起きたときに譲歩する余地がない。
コンピュータは死んでしまうが、人間は気力を取り戻すかも知れないぜ。
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by thatness | 2006-08-26 14:01 | ある日

小日記

ときどき、古い友人や知人の名前を、グーグルの検索ボックスに打ち込むことがある。こういうこと、みんなやってるのかな。ぼくだけだろうか。

詳しく検索することはしないが、やりはじめると止らなくなって、無駄な時間をつぶしてしまう。しかも、こういうことをやるのは自分が行き詰っている(転機に立たされている)とき。なにかしら発見があっても、後味はよくない。

昨晩、なにげにある知人の名前を打ち込んでみると、リクルート系の出版社のサイトがヒットした。知人は某有名企業で、人事のグループリーダーという役職についていた。高学歴で英語も出来たから当然なのかも知れないが、彼の顔写真を目の当たりにしたとき、正直言っておどろいた。

知人は、ぼくが東京でフリーターをしていたころの職場の同僚だった。
頭は切れるが、感情も切れやすく、暴走すると止らなくなる。物腰は柔らかなのだが、頑固なのである。接客の仕事をしていたのだけれど、同僚や取引先、客とぶつかることも少なくなく、いわゆる尻ぬぐいのようなことをした記憶もある。そんな彼が、有名企業で人事の面接を担当しているのである。高い学歴はあったが、フリーターをしていた当時すでに30代の後半だった。当時の仲間とはまったく交流はないが、みんなびっくりするのではないか。

少々混乱したが...、面接官をしている彼をイメージしてみると、その仕事は存外彼に向いているように思えてきた。接客をしていた彼はあきらかに無理をしていて胡散臭かったけど、面接官ならば、集中力があり、実のある話は真剣に聴ける長所が生かせるのかも知れない。自分の能力を生かせる職場だったら、つまらないことで切れることもなくなるだろう。

彼がどういう経緯でいまの職におさまったのか、大変な努力をした上に希有な幸運に恵まれたのは間違いないだろうが、具体的にはまったくわからない。確実にいえることは、人間のコミュニケーションの能力(と評価)は、環境が変われば反転することもありえる、ということか。

心理学でいうところの「図と地」。
バットマンのトレードマークは、最初は上下に奇妙な突起のある楕円形にしか見えないが、黒い影の部分に着目するとコウモリのシルエットが浮かび上がってくる。おなじようなことが、コミュニケーションの能力についても当てはまるのかも知れない。それは個性が強ければ強いほど、ある意味(彼には失礼だが)トラブルメーカーとしての勇名を轟かせるくらいのでっぱりがあるほど、反転させると大きな能力となる。

自分の輪郭をしっかり把握すること。そこから、自分や周囲を反転して眺める力をつけること。解決の糸口や幸運にめぐりあうための「理論」として、心に刻みつけたのだった。あとは汗をかくだけ...。
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by thatness | 2006-08-22 14:37 | ある日

(ナナの)夏の宮殿と、囓られ地蔵。

土曜日、東北から妹と子どもたちが帰省してきた。

覚悟はしていたけれど、ナナは大興奮である。こいつは子どもが大好きなので、スキあらば遊んでもらおうと部屋のなかへ吠える。 網戸も頭突きで破る。さすがに深夜はおとなしくなったが、早朝エアコンが可動するとまたがんがん吠える。 ちょっとやばいかな...と心配していたところ、案の定お隣さんから苦情が来た。 年寄りが不眠で苦しんでいるので、飼う場所を変えて欲しい、と。

どうするべ。
移すといっても、わが家に犬を飼えるスペースは裏庭以外にはどこにもない。 しかし、病気になったといわれればほったらかすわけにはいかない。とりあえず玄関の外の、 垣根と外壁の狭いスペースに移動させてみるが、家から閉め出されたと思い込んでいる(事実、そうだ)ナナはとてつもなく不安がった。

ナナがわが家にやってきてまもなく2年になるが、こんなに哀しそうな声を聞いたことはなかった。玄関の硝子戸に向かって、 深夜まで振り絞るような声でひいひいと鳴きまくる。「ここには置けない」と言うぼくに、母は「おまえは犬に甘えすぎだ」と痛いところを突く。 口論、口論。悲痛なナナの声は町内の谷いっぱいに響き渡るが、それでも近所にいちばん迷惑をかけない場所ではある。 犬も飼い主も、悶々としてほとんど眠ることができなかった。

翌朝、ナナはものすごく興奮していた。
エサも水もほとんど減っていなかったし、大好物の牛皮ボールにも噛み跡が無かった。当然だろう。

とりあえず空き地に放して気分転換をさせる。幸いにも、家族との信頼関係は壊れていなかったが、 その間にあたらしいねぐらを探してやらねばならない。犬小屋をかかえ、適当な場所はないかと空き地をうろうろする。 とにかく玄関先は絶対に駄目だ。ナナもそこが家の入り口というのをよく知っている。 閉め出されたという意識を想起させるので、とても落ち着けない。場所が場所だけに来客に迷惑をかける可能性だってある。

空き地のあちこちに犬小屋をおき、鎖につないでみたが、駄目。ぼくの姿が見えなくなるとすぐにひいひいと鳴き出す。 お隣のご隠居さんへの影響は少ないだろうけど、心理的に安心出来る場所ではないと、別の問題が起こるかも知れない。 母と、口論、口論。試行錯誤。

しかし、努力の甲斐あって?ようやくナナの居場所が見つかった。

わが家の北側、台所の裏の勝手口である。
犬小屋もはいらない狭いスペースだが、外壁と垣根の間にプラスチックの屋根が渡してあり、直射日光は遮られている。 とはいえ、うす暗くじめじめしていて、野良猫の通り道にもなっている場所だ。 雨露がしのげるとはいえあまりに不憫、というのが人間様の先入観だったが、犬は(先祖はオオカミだけあって)存外そういう場所を好むらしい。 ほとんど抵抗することなくスペースにもぐり込み、居心地良さそうにぺたりと座りこんでくれたのである。 そういえば、垣根の隙間からナナはこの場所をよくのぞき込んでいた。もともと興味があったのかも知れない。

いい場所が思いがけなく見つかり、ほっとした。

というか、いままでの裏庭よりもいいかも知れない。 家の中が見えないので子どもたちを探して吠えることはないし、物音がする台所のそばなので疎外感もないらしい。 のんびりとコンクリートに寝そべり、気が向くと半開きのドアに鼻先を突っ込んではくんくんと鳴き、母を笑わせる。 冬になるまでは、ずっとここでもいいように思う。

実は先日、ナナは散歩の途中、小さな地蔵菩薩を見つけだした。 歩きながら白いモノをかりかり噛み砕いていたので、チキンの骨だろうと思って吐き出させると木彫りのお地蔵さんであった。 ナナに囓られて、胸と背中に歯形がついているが、とてもにこやかなお顔をしている。

縁起物か、それともなにか悪いモノでも憑いているんじゃないのか、 家族で議論になったけれど、わが家はお地蔵さんを裏庭にお祀りしていることもあり、捨てるに捨てられない。 わが家でお祀りしてほしくてナナに拾われたのではないか、という都合のいい意見で決着はついたが、 昨日の移動騒ぎですこし心配になってきた。

数日前からストレスが溜まってはいたのだけど、昨日の移動騒ぎで神経衰弱がぶりかえしている。 昼間に睡眠をとったので大丈夫だが、この事件をきっかけに、危ういバランスで止っていた精神のやじろべえが、 一気に左右に振れてしまったような気がする。路傍の仏様のせいだとつい勘ぐるところに、心の疲労が見てとれる? 裏庭のお地蔵さんに手を合わせるときも集中力があがったような...。

ただ思うに、振り子は左右に等しく振れるもの。移動騒ぎは災難だったが、ナナにいいねぐらを見つけだすことが出来た。災難を呑み込んで新しい局面が来たのである。それが災いであろうと、福であろうと、呑み込んでみる。それもひとつの方法だ。

オンカカカビサンマエイソワカ。
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by thatness | 2006-08-07 18:22 | ある日

六根清浄悪疫退散

8月1日。今年も、子どもたちの笹祭りがやって来た。

昨年、一昨年も書いたけれど、眼下の路地から子どもたちの「六根清浄悪疫退散!」のかけ声が聞こえてくると、 今年も無事に夏がやって来たなと実感する。 子どもたちが御輿をかついで階段を登ってきて、夏も一緒に、地球を一周してわが家の前にやってくるのである。 家内安全、招福、悪疫退散。笹祭りが来ないと、ぼくにとっての夏ははじまらないし、終わらない。

ちなみに、今年の水かけは昨年を反省して(がんがんかけすぎて低学年の子どもが転びました)、事前に「かけてほしいひと!」 と呼びかけることにした。すると、水が好きな子は手を挙げて寄ってくるし、嫌いな子はさっと逃げてくれるので助かる。 合理的に?厄払いのお手伝いが出来たのでした。

来年また会おうな。
季節が無事に、地球をひとまわりしてくれることを願う。

話は飛ぶが、一昨日届いた"BOOGIE HOUSE"(山崎まさよしファンクラブ)の会報に、おお...と声を上げたくなるような情報があった。 中身は、会報発送後2週間は情報公開しないよう(オフィシャルサイトで)アナウンスされてるため書けません。 うれしいお知らせなんだけど。
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by thatness | 2006-08-02 13:47 | ある日

小日記

数日ぶりに、雨があがった。

まだお日様は出てないが、外に出てみると、庭の金柑の花にアゲハチョウやミツバチが蜜を漁りに来ている。 空き地に足を踏み入れると、鳥や蝉がおもむろに鳴きはじめて、まるでオーケストラがチューニングをはじめたみたいである。 おそらく、これ以上雨が降ることはないだろう。 鳥や昆虫は(気圧が読めるのか?)、天気のことをほんとによく知っている。 雨がつづけて降りそうなときには、決して活動しない。事実なかに戻ってみると、テレビで大雨洪水警報解除のニュースが流れていた...。
きみたちは人間や犬よりもえらい。きっと期待値(希望的観測)というものがないので、正確に行動できるんだろうな。

梅雨もいよいよ終わりに近づいた。
が、油断していると夏もあっという間に終わる。

ギャーティ、ギャーティ。

時間を追いかけず、追いかけられず、潮流にのるようにして夏を過ごしていければと思う。 もっともまだ、一度たりとも成功したことがないが。

ところで、いまNHK総合で、フランスの世界遺産を訪ねてまわる特別番組がオンエアされていますが、ご存じでしょうか。 日曜日にフォンテンブローの森から出発して、パリ、中世の交易都市プロヴァン、巡礼の町ヴェズレー、リヨン、 昨晩ははオランジュという古代ローマ時代の植民都市。 今日はアヴィニョンで、最終日はマルセイユ。ほぼ完全生中継のプログラムなのだけど、とってもおすすめです。

生中継なので移動距離は短いし、内容を深く掘り下げた情報などもかぎられる。 けれど、現地を流れる時間をそのまんま体感できるのは格別だ。カメラワークもわりといい。 とくに火曜日のプロヴァン、水曜日のヴェズレーは最高だった。ゆるゆるである。

見ながら、自分のたった一度だけの海外旅行を思い出した。

中国の雲南省へ。ろくに国内旅行すらしたことがなかったのに、往復のエアチケットだけを確保して飛び出したのだけれど、 異文化の生活圏をたったひとりで歩きまわったは経験は忘れがたい。とんでもないエクスタシーだった...。 観光とは、なにより異質の時間を浴びることなのだと思う。

あと一回でいいから、どこかに行きたいな。
...どこに行くか。これがとってもむずかしい。
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by thatness | 2006-07-22 01:54 | ある日

スティーヴ・ダラチンスキー頌

5月初旬。
スティーヴ・ダラチンスキーというアメリカの詩人の朗読イベント(於・ギャラリーえびす、佐世保)に足を運んだ。

スティーヴ・ダラチンスキーという詩人について、ぼくはなにひとつ知らなかった。 しばしば寝しなに開く『アメリカ現代詩人101人集』(思潮社)にも、彼の作品はピックアップされていない。 英語圏約1千人の詩人のデータがある「PoemHunter.com」を検索してもヒットしない。(ただし、英語でグーグルに入力すると、一万件以上のヒットがある)
けれど、まったく予備知識なしに、未知の詩人の朗読に触れるのも面白いと思った。 というより、日本語外国語ふくめて、詩人の朗読会というものに足を運んだことがない。 ちいさな、ほとんど内輪だけのイベントだったので少々おっくうだったけれど、朗読大国アメリカの詩人の声を生で聴ける機会など、 わが町では奇跡に近い。迷っている場合ではなかった。

ダラチンスキーさんは、今年60歳。
ニューヨーク、ブルックリン生まれで、現在はマンハッタン在住。 ケルアック、ウイリアム・ブレイク、ギンズバーグなどに影響を受ける...、ということはビートニク世代の詩人なのだろうか。 ジャズを深く愛し、朗読イベントでは、フリージャズのアーチストとたびたび競演されているようだ。 ジャズの知識はあまりないのだけれど、共演者のなかには名前を知っているミュージシャンがいた。

詩人の帰国後、知人から翻訳をもらい読ませてもらったが、作品はブレイクの影響だろうか、とても神秘的な印象を受ける。 といっても、オカルト的な神秘ではない。日常の生活で渉猟された映像や時間の断片が、彼のあたまの中でシャッフルされて (ちょうど村上春樹の『世界の終わりとワンダーランド』のように)、神秘を帯びた暗号となるのだ。

ダラチンスキーさんは、いろんな場所で詩作が出来るのだという。 地下鉄の中、レストランのテーブルなど、街で拾った映像や声を書き留め、それをノートの中でシャッフルしていく。ちらとノートを見せていただいたが、紙の中にびっしりと書き込まれた筆記体の文字、さまざまなコラージュには感動した。 ニューヨークの喧噪が、生きたまま聞こえてくるのである...。
これは引力だ、と思った。街の映像や時間が、宇宙の塵が天体に引き寄せられるように、 自然とダラチンスキーさんに吸い寄せられ、脳の中で言葉に還元されるのだ。 その触媒(あるいはホルモン)としてブレイクがあり、フリージャズがあり、占星術やウッドストックもあるにちがいない。

とてもじゃないけど、ぼくには彼のような引力はない。

長い時間をかけて自分の中に溜まり、発酵したイメージしか言葉にすることができなので、 わずか2行の詩を拵えるのにも半年かかったりする。路上での詩作なんかとうてい無理。 マックのデスクトップでしか、詩を書くことが出来ない(というか、パソコンを動かせるようになって、書けるようになった)。 ぼくも彼のような引力と、風の通しのいいイメージのほら穴(としての脳)が欲しいと思うが、それが才能の多寡なんだろうな。 アウトじゃ...。

ギャラリーでの朗読は、すばらしかった。

最初はブルックナーの交響曲のように、静かに、朝靄が立ちのぼるような感じで詩編が読まれはじめる。 しばしば長い休符、やがて朗読は熱を帯びてくる。 「blue」「pray for me」「semisigure」など、作品の核となる言葉がなんども繰りかえされ、聴くものを不思議な高揚感に駆り立てる。 朗読のテンポがフルスロットルで加速されると、会場が一気に宇宙空間まで飛ばされてしまうのではないかと思い、身震いした。 大袈裟な表現なのは百も承知である。しかし、あの場所あの時間のことを思い出すと、冷静な描写などくそくらえという気持ちになってしまう。

いったい、ダラチンスキーさんは何百行の言葉を朗読していたのだろう。 テーブルの上には、びっしりと文字で埋められた詩編が何枚も置いてあるが、朗読がピークに達するとほとんど目を落としてないように見えた。 ギャラリーの雰囲気を呼吸しながら、用意した作品を組み換えつつ新たな詩を生みだしていく。

正直、英語はほとんど理解できない。 脳は必死になって意味を汲み取ろうとするのに、理解できないので無尽蔵の神秘が心の中に溜まっていく。 しかし、言葉がわかりそうでわからないことも、詩の楽しみのひとつかも知れない。 なにより、意味内容を超えて、詩人の声と息が発散するエネルギーのすごさ。これはライヴを体感したものにしかわからない。

ライヴが終了し、詩人に訊いてみると、思ったとおり朗読にはかなり即興がふくまれていた。 いや、即興というよりも解体といったほうがいいかも知れない。あらかじめ用意した作品が、 会場の雰囲気やその日の調子によってどんどん変化し、他の作品同士でイメージの浸潤もはじまる。 後日、会食の席でダラチンスキーさんは、「ビッグバン」なんだとおっしゃった。作品と作品をぶつけあって、その場であたらしい銀河を作り上げるのだと...。

詩人が生きるなかでイメージを渉猟し、シャッフルされた言葉が作品となり、活字になる。 それをふたたび、詩人は自分の声を通して現実の空間のなかに「帰す」。 まるで植物が花を咲かせ、種子をまき散らすように...。朗読の聴き手は種子をついばむ小鳥に喩えられる。 ぼくらは食べたものを栄養にして、声と書く力を得る。

繰りかえすが、ぼくはマックのデスクトップ上で詩作や作文をしている。 推敲が終わったものはテキストデータとして保存し、あとは自分のサイトにアップするか、紙にプリントアウトすれば、おしまいであった。 作品を自分や他人の声にゆだねてることは想定していないので、ひとつの詩にはひとつの「世界」があるだけである...。 けれどダラチンスキーさんは、完成した自作を、あたかもジャズでいうところの「モード」のようにその場に投じることが出来る。 他の作品ともぶつかり合い、浸潤して、ひとつの作品から複数の「世界」が生まれる。 ぼくにとって、それはまったく異次元の体験といってもよく、あたまがくらくらしてしまった。

ぼくはつねづね、言葉(作品)がその作者の独占物になることに疑問を感じてきた。 音階がなければ音楽は書けないように、言葉と文法がなければ詩は生成しない。 言葉は詩人にとっても、あくまで借り物に過ぎない。ダラチンスキーさんのアプローチのように自作をどんどん解体したり、 あるいは他人の声に自分の作品をゆだねることにより、「借りた」言葉を「世界」に帰すということができるのではないかと思う。 そのプロセスから生成されるのは、作者も気がつかなかった、作品のもうひとつの姿ではないのか。 ひとつの詩から、声の数だけ複数の「世界」が生まれれば、すばらしいことだと思う。

数日後。

市内のライブハウス(於・スペース遊)で行なわれた、ダラチンスキーさんとジャズミュージシャンとのコラボレーションにも足を運んだ。 リハーサルは一切なし。ぶっつけ本番の、インプロビゼーションである。 といってもセシル・テイラーのようなアヴァンギャルドなサウンドを想像してはいけない。 ファンキーでノリのいい、エンタテイメントとしてもじゅうぶんに愉しめるライヴで、 緊張感を強いられたギャラリーとは全然ちがっていて、これまた驚かされた。

むしろ、こういうジャズミュージシャンとのコラボレーションが、本来の詩人の姿かも知れないな。 2時間ちかいライブの最後の言葉は、「jazz makes me」。 そういえば、「i have a dream」ではじまるすばらしい声のパフォーマンスもあったっけ。父のラジカセで聴いた、あのすばらしいグルーヴ。
アメリカには成熟した声の文化があると、痛感した。ビート・ジェネレーションの文化は、若い世代には受け継がれているのだろうか。

ぼくも「ライヴ」になりたいな...などと無謀なことを夢見る。
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by thatness | 2006-07-06 00:17 | ある日

ナナ日記 地の巻

天の巻を書いて、1週間以上も経過してしまいました。
へたれエピソードなのに、こんなに時間が経過してしまうなんて。すいません。

で、地の巻。

ぼくはほぼ毎日、空き地で愛犬とオモチャの取り合いをして遊んでいる。 いい大人がなにをやってるんだろう...と、自分でも思うのだけど、愛犬にせがまれるとついつき合ってしまう...。

よくやるのがボロ布や骨のかたちをしたオモチャを使った綱引き。ぼくは両手で、愛犬は口で、両端をお互いで引っ張り合う。このときの愛犬の必死の形相が、じつにじつに面白い。 鼻のまわりに皺を寄せて、ふんっ...と鼻息も荒い。なにがなんでも放すもんかと迫力のある表情で噛みついている。 のだが、そのまま庭まで引きずっていくとあっさり噛むのを止める。鎖につながれるのがいやなのである...笑。 空き地に放すとなかなか戻らないので、その方法で一度だけ連れもどすのに成功したが、それ以降はもう駄目だ。 同じ轍は二度と踏まない。犬ながら天晴である。

その日、なにげに思いついて、オモチャを足で踏んづけてみた。
いままでやったことのない、パターン。

さてさて、どうするか。オモチャの端っこを軽く噛んで引っ張るが、まったく動かない。 今度は根元を奥歯でしっかりと噛み、後ろ足で踏んばりをきかせるが駄目である。ぼくは愛犬があきらめるところを見たかった。 いままでそういうの、一度もなかったから。しかし、飼い主の意に反して、愛犬はあきらめない。 最後にはおどろくべき行動をとった。なんとお座りをして、飼い主を見上げたのである。すごくないか?

犬が飼い主にお座りをする。あたりまえのことと思ってはいけません。 おやつをあげるとき、散歩につれていくときは、指示を出さなくとも自分でお座りをする。 学習しているからだが、この場合はまったく新しいパターンだ。 どうすればオモチャが取れるか、犬なりに考えてアクションを起こしたのは間違いない。 頭の中にある知識や感情が目に見えないように、考えることも目で見ることは出来ないが、愛犬がお座りをした瞬間、 ぼくは考えることをこの目で見たような気がしてとてもとても感動した。直感的なイメージでいうと、 純度の高い蜂蜜を舐めたような感じだろうか。愛犬の、無垢な目がそういう連想を誘ったのだろう。

論理学者、野矢茂樹さんの美しい本、『はじめて考えるときのように』によると、 考えることとは、ひとつの問いが心にひっかかっている状態、問いをさまざまな視点で吟味する行為のことをいうのだそうだ。 野矢さんによれば、計算問題を解くことは考えるとはいわない。というのは、あらかじめ決められた法則に記号を当てはめているだけだから。 法則があり、記号があれば答えはすでにわかっている。

ようするに、考えるとは、問いに気がつくことなのだろう。 それは案外むずかしいのではないか。受験でも採用試験でも、あらかじめ用意された問いに答えるのがそのプロセスであって、 問いを作りなさいという試験はきいたことがない。けれど、人生ではたくさんの美しい問いに気がつくことが要求されるように思う。 アートの世界ではとくにそうだろう。それは、いわゆるテーマを探すこととは似て非なるもの。 すばらしい作品には、かならず美しい問いがやどっている。

ナナ、きみは美しいっ。

しかし、きみは果たして、自分が考えたという事実を自覚しているか。 考えたということがわからなくて、それを考えたということが出来るだろうか。ううむ。
禅の公案「狗子仏性(くしぶっしょう)」では、犬にも仏の心はあるが、自覚できないのでないのと一緒だ、ということになっている。 そこが犬知恵の限界...? でもまてよ...。もういちどオモチャを踏んづけたらナナはどうだろう。やはりお座りをするのではなかろうか。 同じことが出来るというのは、自覚したということであり、考えたということにならないか。うううむ。
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by thatness | 2006-06-25 22:13 | ある日

ナナ日記 天の巻

ダラチンスキーさんと元ちとせのライブレポが、なかなか進まない。
同人誌やコンクールの締め切り、ドローイングの制作が立て込み文章をまとめる時間がない。というのは嘘ではないが、 ワールドカップの開幕で気持ちがそっちに引きずられているというのが大きいかな。

というわけで、最近の愛犬のへたれエピソードをひとつ。

日本がオーストラリアに歴史的な敗戦(ドーハの悲劇、 サン・ドニの惨劇に匹敵するんじゃないのかなあ)をくらった翌日だったと思う。 なかなか寝付けなくて、朝は11時ごろに起床。空き地に出てみると、母が草むしりをするそばで、 愛犬がなにやら白いものを口にくわえていた。まただ。

こいつはほんとに...どこからこういうのを見つけてきたんだ、と驚くようなものをひっぱりだしてきて(掘り出して)オモチャにする。 トカゲや甲虫の幼虫は日常茶飯事、ヘビをひっ捕まえて遊んでたこともあったし、巨大なサルノコシカケを見つけてきたこともあった。 せまい空き地のどこに生えてたのやら見当もつかない。柴犬おそるべし、である。

で、その白いもの。あきらかに発泡スチロールに見えた。胃袋にはいるとやばいので止めさせようと近づいたが、 ナナはとうぜん口にくわえたまま逃げる。しかし、白いものはぼろぼろに崩れて地面に落ちる。 拾い上げると、なんとコンビニのおにぎりであった。

いやな感じがした。

以前にもやはり、フライドチキンだったか、おでんだったか、 とにかくコンビニで売っているような食べ物をナナが頬張っていたことがあった。 誰かが故意に、空き地に放り込んだとしかかんがえられない。 空き地はわが家の真裏にあって、袋小路の路地を奥まで進まないと近づくことが出来ない。よその飼い犬に食べさせるために、 奥まで入り込んで食べ物を放り投げる人がいるだろうか。食べ物に農薬でも仕込んであるんじゃないかと心配になる。

母と相談した。

こういうご時世だし、警戒するに越したことはなかあ...。かわいそうだけど、見つけ次第取り上げて、「駄目」をしつけるしかない。 飼い主の心配をよそに、ナナは地面に寝そべり、天を仰いで鼻をひくひくさせている。 いい匂いでもするのか? をい? と、その様子を見て、食べ物を運んできたものの正体がひらめいた。

カラスだ...。 
たぶん間違いない。カラスが食べ物を、偶然空き地に落としたのだ。母も、草むしりをしながら、ものが落ちるような音を聞いたという。 人間が放り込むよりも、可能性としてはこっちのほうがだんぜん高いよな。飼い主としてはひと安心。

ナナはしばしば、空をじっと見上げていることがある。
ふうむ。さすが詩人?の愛犬。こいつは空の青さが目に滲みていると感心していたのだけど、違うようだ。 天から美味いものが降ってくるのを期待していたのかも知れない。事実、その通りだったのだから。いいよな犬は。
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by thatness | 2006-06-16 10:53 | ある日

中日記

ホームページ、「抹香クジラの脊椎コロニー」を開設して昨日で2周年。
アクセスはやや下降気味ですが、ブログを中心にご覧いただいている方が多いので、それなりに順調な展開であったと思う。 時間を割いてアクセスいただいている皆さまには感謝の言葉もありません。ありがとうございます。

先々週、職場で「心理的な交通事故」のようなことに遭遇した。
思い出したくもないのだが、過去にもおなじような事態に巻き込まれたことがあった。 どうしておなじような心理的クライシスをいつもよびこんでしまうのだろう。。いけないとわかっても、自分を攻めてしまう。耐え難い苦しみ。
結局、無念ではあるけれど、職場を離れることになった。 致命的なミスを犯したわけでもなく、むしろ真面目に(人から見ると、違うのだろう...)勤務していたので悔しいが、 これ以上職場にとどまると、自分の心が壊れてしまう。 つくづく、この世間に自分の居場所があるのかないのか、またまた悩んでしまうのであった。

しばらくは音楽をたっぷり聴いて、静養したいと思う。

収入がないと家族に迷惑がかかるので不本意なバイトもしなければならないだろうけど、まあ、がんばれるだろう。 自分の心身への信頼を取り戻せることができればまた、前を向ける。それから将来のこともじっくりと考えたい。

最後に、ブログなどでお知らせした、 サイト開設2周年記念スタバのオリジナルタンブラーのドローイングは、予定通り制作するつもりです。いましばらく時間をください。

元気にしてますので、これからもよろしくおねがいいたします。
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by thatness | 2006-06-02 13:08 | ある日

trust your soul !!

Citron Syrup」のyukkoさんからMAYA・MAXXのポスターをいただいた。

MAYA・MAXXは最近個展を開催していないし、ショッピングサイトも閉鎖しているので、ポスターや関連グッズを入手するのはとてもむずかしい。お引っ越しで荷物を整理されている過程で、どうせならと贈ってくださったのだけど、大好きな画家のポスターなので梱包を解いた瞬間、しびれた。深紅の木製フレームも色鮮やかな絵にピッタリだし、yukkoさん、この場を借りてあらためてお礼申し上げます。

さっそく部屋の壁にぶらさげて毎日眺めているのだが、ついつい自分の絵と比べてしまい、力の差を見せつけられた...笑。
ポスター自体がまず、ふだんぼくがドローイングブックに描いている絵のほぼ倍のサイズがあり、それだけでパワーが違う。おまけにあの画面である。実物はさらに(下塗りに使用されている洋雑誌から見るに)ポスターのほぼ3倍の大きさはあるはずだ。いったいどれほどの迫力があるのだろう。もっとも、この部屋で鑑賞するにはポスターがベストなのはいうまでもないが。

ともあれ、自分の身体のサイズよりも大きな絵を描くって、どういう体験だろうか。いつかチャレンジする機会があればなと、思う。

いただいたポスターを見てあらためて感じたのは、MAYA・MAXXの絵は色彩、線とも饒舌だが、伝わってくる「波動」はとてもシンプルであるということだ。これはけっこうむずかしい。サイ・トゥオンブリの画面のように、試行錯誤をくりかえして、そのプロセスを絵にしてしまうというものではない。モーツアルトの音符のように、線も色彩(彼女はあまり色を混ぜない)も強い確信をもってどんどん描き込まれていて、描き加えたりイメージの進路変更の後のようなものが、ない。それは、イメージの引き出しが多く試行錯誤が少ないというより、自分の「魂」への絶対的な信頼感が描かせているように感じる...。
MAYA・MAXXの絵のいちばんの魅力はそこなのだ、たぶん。絵を描くことが自分の魂の花を咲かせ、人生をそのまま切り開くことにもなった、画家の「幸福」な時間と記憶がそこにはあふれている。

4月末から、新しい赴任地での仕事がはじまった。

この仕事にたずさわるようになり4年になるが、年々職場環境がきびしく感じるのは気のせいだろうか、それとも年のせいだろうか。...両方だろうな。

それでもぼくは幸福である。
一緒に暮らす両親がいて、これ以上の「無垢」はないだろうという目をした雑種の愛犬がいて、絵が描ける時間とスペースと、好きな音楽がある。MAYA・MAXXのポスターも壁にはかかっている。

「魂」への信頼、ということを自分なりに考える。
魂は、狭義の霊魂である必要はない。古代ギリシャのプシュケーの語源は「横隔膜」だそうである。つまり、呼吸と、感情や知恵の座は同じだったということだ。自分の心身への信頼がなければ、絵も描けなければ仕事も出来ない。それが枯渇しないかぎり、ぼくは幸福を確保している。
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by thatness | 2006-05-10 22:59 | ある日