sort of day

S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31
カテゴリ
以前の記事
フォロー中のブログ
検索
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧

<   2004年 08月 ( 2 )   > この月の画像一覧


雲井雅人サックス四重奏団を聴く

24日。地元の音楽ホール。
サックス四重奏団のコンサートに行った。ソプラニーノ、アルト、テナー、バリトンの4管のアンサンブル。 といってもジャズではありません。クラシックです。

サックスとは、いまから160年ほど前、ベルギーのサックスさんという方が発明した楽器なのだとか(...知りませんでした)。 クラシックのオーケストラのために拵えられた楽器なのだろうけど、実は本家本元ではあまり普及していない。 もっぱらポピュラー・ミュージックで活躍している。

サックス四重奏というのがクラシックにあるというのは知っていたけれど、どんな曲があってどんなサウンドなのか、 見当もつかなかった。 チケットが安かったというのもあったけど、好奇心をおさえられなくて足を運んでしまったのである。

ステージに4人の演奏家が登場したとき、最初にまず、楽器の美しさに目を奪われてしまった。 柔らかい曲線の管と複雑な弁が、照明を浴びてきらきらと光り輝いている。まさに「金管」である。 しかも、意外と大きい。サックスの形状はこういうもんだと知ってはいたけれど、目の当たりにすると迫力があった。 存在感のある楽器なのである。

響きは素晴らしかった。ぶあつく、柔らかい。

実はわが町の音楽ホール(中ホール)は全国的にみてもトップクラスの音響を誇る、とぼくは思う。 (その証拠に、昨年はアルバン・ベルグ・カルテットがここでリサイタルを開いた) そのホールが、歌うように朗々と鳴る...。 弦楽四重奏のサウンドが、空から舞い散るような雪だとすれば、サックス四重奏は地鳴りのようでもあり、外洋の大波のようでもある。

同時に、繊細で知的な表現もできるのが面白い。管一本だとシンプルな音しか出せないけれど、 4本だと弦楽四重奏と構成は同じ。各々の声部の分離がいいので、バッハの『フーガの技法』なども演奏可能なのではないか。 (体力的に全曲は無理でしょうけど)

さて、その日のプログラム。サックスのために書かれた曲というのがなかなかないので、 どうしても編曲ものがプログラムの大半を占める。ビゼーの『カルメン』からの抜粋、 ドボルザークの弦楽四重奏曲「アメリカ」の第1楽章、ガーシュインの『ラプソディー・イン・ブルー』など。 ベルギーからフランスの軍楽隊を経由してアメリカで普及したという(...知りませんでした)、 サックスの歴史性を念頭においた構成だろうか。そんな理屈をこねなくとも、 とにかく楽しい演奏。隣に座っていた初老の男性などは、扇子を指揮棒代わりに振り回して楽しんでいた(....ちょっと、迷惑でしたよ)。

いちばん感動したのは、バッハの「G線上のアリア」。

この曲のイメージは、ヴァイオリンの独奏を聴いても、原曲の小オーケストラで聴いても、 センチメンタルな印象しか持たなかった。他のバッハの作品とくらべると明らかに見劣りがするし、 精神性の低い世俗曲だと決めつけていた。
ところがサックスで聴くとどうだ。まるでオルガンで聴く教会コラールなのである。 敬虔なプロテスタントだった、バッハの祈りが聞こえてくるではないか。これにはやられた。 身を乗り出して聴く。目からウロコであった。

よくよく考えてみると、サックスもパイプオルガンも、空気が金管を抜けるわけだし、音を出す構造は同じである。 というか、人の息で直接音を出すサックスのほうが、より繊細な表現ができるのかも知れない。 見知った楽器から、見知らぬサウンドが流れてくる。新鮮な体験であった。

サックスという楽器は、面白いものだなと思う。
たった4人の息、横隔膜のコントロールでこれだけの音量、繊細な表現である。 人間には声という素晴らしい楽器も備わっているけれど、サックスもまたそれに見劣りしない表現力を持っている。 無色透明で、ふだんは意識しない空気に、 音楽という方法で色彩をあたえデザインするのがサックスだと思った。 音楽の力で、空気が見えるのである。

そういえば、管楽器のことを、英語では「wind insturument」という。見えない空気を感じさせる力として、 サックスはまさに風でした。
[PR]

by thatness | 2004-08-26 15:18 | 音楽_classic

六根清浄悪疫退散

7月が終わり、8月がはじまった。
夏から夏へ。

きのう、8月1日は近所の八幡様が主宰する子供たちの笹まつり。

このあたりの校区では、毎年8月1日に町内の子供たちが集まり、八幡様でお祓いを受けてから、 無病息災、家内安全を願って町内を練り歩く。掛け声は30年前、ぼくが参加したころからちっとも変わっていない。 「六根清浄悪疫退散!」である。(六根清浄というからには、どうみても仏教的な概念だけどまあいいや。 ここは神仏習合の国、日本である)

大人たちは玄関に出て、子供たちに水をかける。 お釈迦様に甘茶をかけるようにやさしく水かけするおばあちゃん(母です)もいれば、 ホースの先をつまんで鉄砲水をぶちまけるフトドキもの(ぼくです)もいる。もちろん子供は後者のほうを喜ぶ。

今年も、元気のいい声が町内に響きわたり、わが家の前にもやって来た。この声がすこしづつ近づいてくるのを聞くと、 なぜかわくわくする。夏だ、夏が来きたなあ、という感じ。笹の葉を振り回し、小さな神輿も担いで、子供たちが来て、 水をかけられ、わいわい言いながら家の前にたどり着いた時、その瞬間に夏が見える。嘘ではない。

彼らはそのまま、夏をふりまきながら地球を一周してるんじゃないか。そんな空想をしてみたりもする。 星の運行のように、一年に一度正確にここにやって来て通過していく。来年も見れるだろうか、 大過なく過ごせるだろうかと考えるとき、ぼくの中にも日本人の習俗の感覚が残ってるのかなと、少し思う。

ぼくの場合、夏の記憶は皮膚的な感覚でも映像でもない。暑いとか、じめじめしているとか、 花火だの日差だのは存外記憶にはならなくて、あたまに残るのは音声である。 クマゼミ、ヒグラシの鳴き声、草むらの地虫。昼間のプールの歓声、花火がぽんと打ち上がる音。そして、きのうの笹まつり。
[PR]

by thatness | 2004-08-01 14:52 | ある日