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H中学校の「春の祭典」

ついに雨水である。
気温があがって雪が雨に変わる時節という意味らしい。

またまた音ネタになるのだけれど、冬という季節はいろんな音が聞こえてくるので面白い。 ここが丘の上の一軒家であることも幸いしてか、白い和紙に書家の墨がぽつねんと落ちるように、 静寂の中、音がぽんとあらわれては耳にとどく。 夏だとこうはいかない。クマゼミ、アブラゼミ、ツクツクホウシと蝉どもがひねもす絶叫しまくって、 ほとんどパンクである。それも嫌いじゃないけど、音が四方八方から押し寄せてくるので閉所恐怖症になりそう...。 反対に冬は、静寂につつまれていて遠くの音もよく聞こえる。寒いのはつらいが、この広々とした解放感は冬でしか味わえない。

いまも外では小雪がちらついてるが、 ヒヨドリ(今年は当たり年です。多い多い。)がびいびいといういつものヒステリックなかすれ声をあげ、 空を切り裂くように飛んでいく。ウグイスの笹鳴きもかすかに遠くから聞こえてくる。 ついさっき愛犬を散歩に連れていったときは、どこからからともなく箏の音である。 子供が弾いているのだろうか、「さくらさくら」の調べはたどたどしくも愛らしい。 春であってないような、この微妙な季節感がなんとも気持ちいい。春の足音が、ひたひたと聞こえてくる。

そういえば、先日こういう音と出会った。

仕事がらみである中学校を訪問したとき、体育館からずしん、ずしんとものすごい重低音が響いてきた。 ちょっと近所迷惑じゃないのか...笑、というくらいの迫力。好奇心にかられてのぞいてみたのだが、音の正体はなんと、 全校生徒でのクラス対抗長縄大会であった。
館内に入れさせてもらい、しばらく見学していたのだけれど、この重低音がなんとも気持ちいいのである。 ひとりふたりで跳んでいるときは、ぱた、ぱた、と靴が擦れるような音しかしない。 それが縄の中に五人十人と増えていくにつれ、全校生徒のリズムが揃ってくる。 クライマックスになるとそれはもう、腰肚に響くというより、体育館の床がぬけるんじゃないかというくらいの迫力なのだ。 思春期の子供たちの、紅潮した顔と力いっぱいジャンプする若い脚。 ずしん、ずしんと、重低音がからだを襲うたびに頭がくらくらする。

それはまるで、ストラヴィンスキーの『春の祭典』であった。体育館の大音響は、 曲にしばしばあらわれる大太鼓の連打を連想させずにはおれなかった。

クラシックが好きな方には、駄弁を弄ぶことになろうが、 ディアギレフのロシアバレエ団のために作曲されたこの曲は、変拍子、不協和音、大音響のオンパレード。 1913年にパリで初演されたときはあまりの斬新さに会場はパニックになったというのは有名な話。 ジャズにもロックにもない強烈でプリミティヴなリズムは、いまでもじゅうぶんにエキサイティングだ。 それとまったく同じ感動が、思いがけない場所でぼくを直撃したのである。嗚呼、春が来る、春が来る。 荒ぶる神のように、春が来る...。

話はそれるが、この『春の祭典』という曲、70年代、80年代は世界中の指揮者、オーケストラが腕を競うように演奏、 レコーディングした人気曲だった。ぼくも高校生の頃ハマりまくった思い出がある。 あの頃は、大音響と刺激的なリズムに酔いしれるためだけに聴いていた感があるが(みんなそうだった)、 この曲の魅力はもちろんそれだけではないだろう。演奏家の解釈次第だが、曲のモチーフ(太古の時代の、 神に乙女を生け贄としてささげる祀り)にあるように、 原始時代の生々しいエロチックなまでの生命感とエネルギーが再現できれば、強烈な「癒し」の音楽としてよみがえるのではないか。

「癒し」というキーワード(というか流行語)をはじめて世に提示したのは、文化人類学者の上田紀行さんとのことだが、 その原意は、いま一般的に流布しているいわゆる「癒し系」なるものとは180度異なるものだ。 台湾やスリランカの悪魔祓いの儀式にあるように、 魂と身体を暴力的なまでに突き動かすハードな儀式を通して心の病(悪霊)をふり祓い、元気を回復させる。 それが上田さんの提示した「癒し」であるのだが、いつのまにやらヒーリングだのアロマだの、 ちまちま系に原意がすり変わってしまった。もちろん、そっち系の音楽やアートもいいものはいい。 でもたまには、寒さにこごえ、へたった自意識にがつんと鉄槌を落とすようにハルサイ(『春の祭典』のことです)を聴き、 元気を出すのもアリだろう。

ともあれその日、中学生たちが叩きだしたサウンドは、ぼくの中では迫力満点の新しい季節の兆しであった。 土の中の地虫どもを無理矢理たたき起こすような、あるいは固い大地から新芽が吹きだし、 地割れがばりばりと広がっていくような...。耳を澄ませば、冬は静寂の季節でも死の季節でもない。
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by thatness | 2005-02-21 15:09 | ある日

地面に想う

金曜日の朝。休日。
いつもように空き地で目を閉じ、足をふんばって深呼吸をしていると、西の方角からぼあぼあぼあ、となんとも妙な音が漂ってきた。 金管楽器のチューバがチューニングする音である。 ぼくの母校でもある丘の下の中学校で、ブラスバンドが稽古をはじめたらしい。 やや瞑想状態にあったので、すっと耳にはいった瞬間は何が何だかわからずうろたえた。 チベット仏教の典礼には欠かせない管楽器(人骨で作られるものもあります)の低音にそっくりだったが、そんなはずはない。 あれこれかんがえるうちに足元がぐらぐらしてきた。

ひんやりとした冬の大気を染めたチューバのロングトーン。 それは雲のように青空を漂うというより、地面から突き上げてくる鈍い振動のようであった。 まさに(ちょっとはやいけど)啓蟄の音である。
もし土の中に高感度の集音マイクを埋め込み、地虫たちの深い呼吸音を拾えるならたぶんこんな感じではなかろうか、と空想する。 この空き地で身を縮めているミミズやゴミムシ、数百数千の名もなき地虫たちが、 あたたかくなってきた土の温度を敏感に感じとり、活動するタイミングを計っている。 あるいはすでに覚醒していて、ゆっくりと呼吸のトレーニングをはじめている。ぼあぼあぼあ、と。

そういえばアートや現代音楽の世界にも、自然音や生活の中の雑多な音を拾い出して作品にするこころみが数多くある。
10年以上前、福岡市美術館で見た、 氏家啓雄さんのガイガーカウンターと自動ピアノを組みあわせたインスタレーションは強烈だった。 バンアレン帯を突き抜けて地上にたどり着いた(あるいは地球を貫いてきた)放射線をガイガーカウンターでキャッチし、 そのデータをあらかじめ決められた音程に変換する。 データは自動ピアノに送られ、放射線が会場を走り抜けるたびに鍵盤が鳴るのである。 その音はやわらかい雨だれというより、豪雨に近く、身近に宇宙を体感した瞬間であった。 氏家さんはまた、植物や鉱物が発する微弱電流を音に変換して聞かせるオブジェも制作している。なかなか面白そうである。

60坪足らずの空き地をぼんやり眺めていると、ここが微細なイマジネーションあふれる小宇宙に思えてくる。 愛犬が木切れを噛む音、ヒヨドリのびーびーという啼き声、救急車のサイレン。 でも、それだけじゃない。もっとあるはず。その好奇心がたどり着く先にアートがあるのかも知れない。 人間は、自分が見たこともないもの、聴いたことの無いものを、探したり作りだすのが大好きな生き物なのだ。

英語で発見することを"discover"という。つまり、"cover"が"dis"される、 覆い隠していたものがなくなってしまうことが「発見」という発想である。 たださらにいうと、知らないことを知ってしまうことよりも、知らないことに出くわして狼狽すること、 そこにより大きな喜びがあり神秘があり、アートを生み出すモチベーションがあるように思う。 空き地で聞いたチューバの響きのように...。発見が、ただの「発見」ではつまらない、というのはいい過ぎだろうか。
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by thatness | 2005-02-12 15:06 | ある日

庄野潤三『ピアノの音』

数年前のこと。 郊外の古本屋で、ばら売りされていた新潮の日本文学全集の中から、 石川淳と安岡章太郎、庄野潤三の作品集をそれぞれを買った。 一冊500円くらいだったと思う。 もちろんいまも手元にはあるが、短編ひとつ読まれることもなく本棚に詰め込まれすっかり持ち主に忘れられている。 まるで、海中に沈められたコンクリートブロックである。

ところが昨年末、書店で平積みされている『ピアノの音』(講談社文芸文庫)が目に止まった。 シンプルで上品な装幀と、短旋律の宗教音楽を聴くような美しい文体に目を奪われ、購入。年明けから読みはじめた。
内容はというと、一見すると小説家の身辺雑記なのである。 小説家は小田急小田原線生田あたりの小高い丘に妻と二人で暮らしている。

3人の子供たちそれぞれ独立し、家を出た。 実家は子供たちに「山の上」と通称され、頻繁に往き来があるが、老夫婦の日常生活は雲が流れていくようにゆっくりと流れていく。 「夜、ジップ一声も吠えない。朝、起きたとき、ジップがいるのを忘れていた。 小屋の中に入れておいたタオルケットを一枚、外に張り出してあった。その上で寝たのか、 それともくつぬぎ(ここがジップは好きだ)にのせておいたまるいわらマットの上で寝たのか、わからない。 朝、雨戸をあけたときには、くつぬぎの上に坐っていた。」180頁

「ブローディア。妻は庭にブローディアの芽がいくつか、ひょろひょろと出ているのを見つけた。 飢えた覚えは無いから、プランターのブローディアを植えかえするときに、 土を捨てた中にブローディアの球根が混じっていたのだろうか。掘り返したら、 指の先くらいの小さな球根が出て来たのを、前にゼラニウムの入っていた植木鉢に植えたという。 よろこんでいる。」270頁

『ピアノの音』では、こういうけれん味のカケラも無い生活描写がえんえん300頁も(ただし、見事に構成されている。 だらだらしているわけではない、念のため)つづく。当然読書のピッチは上がらない。 ぼくの場合で3週間もかかってしまった。それでも面白くて仕方がない。

この小説では作家の内面がまったくいいほど聞こえてこない。淡々とした事実の描写(あるいは羅列)がつづく。 素の文章そのものだけが、ある。
小説に限らないだろうけど、文章を書くという行為には、生きているこの世界での自己実現、 あるいは自己の再構成への欲求みたいなものが大なり小なり入り込んでしまうものと思う。 登場人物の誰かが、土地や物語そのものが、書き手の分身となり、自己を内面的にアップデートしたり慰安するのに一役買う。
ところがこの作品では、作家の内面は(どういうプロセスを経てこうなのか、他の作品を読んだことがないのでわからないけど) 見事に削ぎ落とされている。語り手たる庄野潤三はいるが、その中にはいってゆけない。 読み進むうちに、自分が小説世界を空気のように偏在して行ったり来たりしているのを感じる。 ある場面では小説家の、ある場面では孫のフーちゃんのお喋り(具体的にはほとんど出てこないけれど)に耳をかたむける。 それがとても気持ちいい。

人間は自分の過去に記憶されている存在だ。 その土台の上、未来を了解し、自分自身のゲシュタルトを成立させて生きている。 けれど『ピアノの音』ではありのままの現在が、ただ清冽に流れていく。 それは、孫のフーちゃんが書いたお習字のことば「安心」と呼ぶにふさわしい世界だ。

本棚で死蔵されていた庄野潤三集。今年中にはひも解かれ愛読書となるだろう...たぶん。 まだ海中に沈んではいるけれど、ブイはくくりつけてある。いつでも机上に引き揚げられるように。
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by thatness | 2005-02-06 15:25 | 書物