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「俺」

谷郁雄さんのポエトリーブック(詩と対談集)『旅の途中』のなかに、詩人某のこんな発言をみつけた。引用する。
「俺、詩人って野球のピッチャーのようなものだと思ってるんですよ。ピッチャーというのはみんな同じボールを投げるのに、 スピードも違えば変化球も違うし、球種も全部違う。 だけどルールを守って投げてるし同じボールなんですよ。 詩人もそうで、同じ日本語を書いても、速さが違って、変化球も違うし、フォームまで違うじゃないですか。 ある時期からは、それをすごくイメージしてやってるんですね」

野球は、言葉と似ている...かも知れない。 生活習慣のようにおぼえてしまっているので意識することはないが、 野球には緻密なルールがある。 スリーバントを失敗したらアウト、ファールボールは何度打ってもよいが、 フライを捕球されたらアウト、満塁でランナーが本塁に突っ込んできた場合はノータッチでアウトだが、 塁が埋まっていないときはタッチプレー...などなど。 ややこしいが、ルールそれぞれを吟味してみると無駄なものはひとつもない。 どれか一つでも欠けると野球というゲームが成立しなくなるのでびっくりする。 ルールというものは面白いとおもう。

「問題はスピードなんです。つまり何キロ出てるかが問題で、130キロ以下だったらプロにはなれない。 ....たとえば富士山を見て詩を作りたいとしたら、 富士山をいかにアウトにとるってことがそいつの持ち味じゃないですか。 それを三振なのか、ピッチャーフライなのか、バットを折るのか。わざとボール球を振らすこともできるわけですよ」

紙やパソコンに向かう前から「富士山」がはっきりと見えている詩人はあんまりいないと思うが...笑、 相手が強打者であればあるほど、球を投げるほうにも力量が求められる、ということはいえるかも知れない。 力のあるピッチャーほど自分の持ち味があることも事実で、 持ち味を支えているのはパワーよりも繊細な感受性であることも興味深い。 ぼくはどんなピッチャーになれるだろうか。

「ボールには縫い目があるでしょ。だから「俺」という字にも縫い目があって、 その縫い目に「俺」に対してどう握るかによって回転が変わると思ってるんですよ」

うまいことをいうなあ。

ぼくはこの谷郁雄さんの対談相手、三代目魚武屋濱田成夫なんだけど、 どうしても好きになれない詩人であった。 詩集のタイトル(『君が前の彼氏としたキスの回数なんて三日で抜いてやるぜ』など) がまずついていけないし、 作品といえば徹底的に自分を褒めちぎる自信過剰の大安売りのようなものばかり。 これほど人生に鈍感な人間の言葉が詩人と売り出され、売れている。なんでやねん、であった。

けれどこいつは、ただ者ではないぞ。やっぱり。
「俺」をどうにぎるかでボール(作品)の回転を変えるという発想。非凡である。それは単に作品のスタイルを変えるということではない。 いくつもの真実の自分を持って生きているということなのではないか。 彼の作品が自信過剰の大安売りにしか読めなかったのは、読み手の自分に、複数の「俺」がなかったからかも知れないのだ。

「俺」というボール(縫い目)はひとつだが、それは言葉の「俺」でしかない。投げられた「俺」が俺なのだ。

「ナックルっていうのがあって、ナックルは風によって落ちる場所が違うんですよ。 ...風によって、落ちる場所が違う言葉を作りたいって思ったりする。そのためには言葉の中に風を吹かさなくちゃいけない」
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by thatness | 2005-04-29 15:31 | 書物

温故知新、長崎県美術館へ行こう

光陰矢のごとし。
いつのまにやら長崎県美術館が竣工、ついに昨日開館とあいなった。

建設計画をはじめて聞いたのはいつのことだっただろう。 忘れていたわけではなかったけれど、ああ...もう出来たのか、という感じ。 期待していなかったわけじゃないのだけど、 コレクションは(老朽化ですでに解体された)県立美術博物館のものがそのまま収蔵されることになっている。 はじめから充実したコレクションがあるのは悪いことではないが、逆に云うと出来ることに道筋がついてしまい自由がきかないという面もある。 新鮮味がないといば、ない。 事実、県美のサイトを閲覧してみると、運営方針は既存のコレクションの活用、 企画展や市民ギャラリーの併設、 ワークショップの開催などなど、どこの地方美術館でもやっているような活動に終始しそうな気配である。
初代館長は県出身の伊東順二さんであるが、 いままでのキャリアがこの美術館で果たしてどこまで生かされるのか...。 瀧口修造は三顧の礼をつくされ富山県立美術館館長の就任を乞われても、固辞しつづけたぞ。

しなかしながら、新しい県美には、長崎という土地柄ならではの貴重なコレクションが収蔵されているのも事実で、 (ここを閲覧していただいているのはほとんど県外の方ばかりだろうけど)個人的に期待しているものをいくつかご紹介。

まず、ここにはアジア最強といわれるスペイン美術のまとまったコレクション(須磨コレクション)がある。 有名作家や大きな作品はないが、16世紀から20世紀まで、幅広い時代領域をカバーしている。 学生のころ、旧県立美術博物館で見たときは展示室の雰囲気も暗く退屈だったが、 新しい県美の展示室で鑑賞すると雰囲気も違うだろう。 15世紀のスピリチュアルなテンペラ画などをもう一度じっくり見てみたい。

それと、よく知られているように長崎は日本の写真発祥の地。 江戸末期から明治期にかけての古写真が長崎にはたくさん残っている。 とくに長崎大学の付属図書館には全国でも有数のコレクションがあり、ネットで閲覧することもできる。 ぼくは古写真の質感や、モノクロに着色した絵葉書写真をとても面白く思っているので、 県美の常設で見れるのを楽しみにしている。さらにあの東松照明さんの作品を常設でまとまって鑑賞できるのは、 全国でもここだけだろう。2000年に開催された「長崎マンダラ」展には行けなかったので、 「チビシロくん」や「キャラクターP」に出会えるのが楽しみである。

最後に、個人的にいちばんの期待は、スペインリアリズムの代表的画家、 アントニオ・ロペス・ガルシアの絵画を見ることができること。 ぼくはビクトル・エリセ監督の『マルメロの陽光』でこの画家のことを知り、 非常に惹かれたのだけど、 まだ実物を見たことがない。 (ひょっとして学生時代に見たのかも知れないが、そのころはまだ知らなかった...)
図版を見る限りでも、ロペス・ガルシアの絵画はすごい。 描くものは果物や室内の一角、 身近な家族のポートレートに過ぎないが、写真のように正確に描き、 写真には出せない不思議なリアリズムが伝わってくる。 画面に隙がなく、タッチはアンドリュー・ワイエスにも似ているが、ノスタルジーは無い。 まるで水晶の玉に吸い込まれるように、 ガルシア・ロペスの世界に自分が吸い込まれてしまう。オーソドックスな遠近法にも忠実な画面なのに、 見ることの意味、時間や存在の神秘について考えさせられる不思議な絵画世界。
ガルシア・ロペスはヨーロッパでは大変有名らしいけど、 一点の作品を仕上げるのにかなりの時間をかけるので作品数が極端に少ない。 『マルメロの陽光』でもついに作品は完成しなかったが、 県美が所蔵している作品にも完成に20年を要したことが記載されている。 彼の絵画は『マルメロの陽光』が公開当時は日本に3点しかなかった。寡作であることを考えれば、 いまでも日本で実作を見るチャンスは滅多にないだろう。
6月下旬までは常設されているようなので、ほとぼりが冷めたころを見計らって、 じっくり見に行きたいと思っている。

新しい県美術館は、キャッチフレーズにある「呼吸する美術館」というよりは 「温故知新」の美術館なのではないかと思う。 コレクションはすでに大量にあるので、カラーははっきりと出ている。 長谷川祐子さん率いる金沢21世紀美術館のように、 いちからコレクションを集めて立ち上げた美術館ではない。 斬新な試みは期待できないかも知れないが、 ワークショップなど枝葉の部分で小さな面白いことをやってくれればいいと思う。

ちなみに、建物の設計は隈研吾さん。
柱がまっすぐ立っていて、平らな屋根がのっかっている今どきの美術館にしては珍しく? まっとうでシンプルなデザインになっています。 『CASA』の最新号(特集・21世紀のミュージアム)にも掲載されているので (SANAAやピーター・クックの陰に隠れてあつかいはきわめて小さいですが...)、もしよければチェックされたし。
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by thatness | 2005-04-24 15:30 | 美術_art,photo

山崎まさよし ONE KNIGHT STAND TOUR 2005

ぼくは山崎まさよしが大好きである。
4月3日。佐賀市文化会館のライブに行ってきた。

以下思ったことを徒然なるままに。

今回の「ONE KNIGHT STAND TOUR 2005」(以下OKST2005と略記)、名前を見てもわかるとおりスタンド・アローンのソロライブ。 山崎まさよしは、スタンド・アローンのソロツアーと、ベースに中村キタロー、 ドラムに江川ゲンタをむかえたトリオバンドによるバンドツアーとを、アルバムのコンセプトにあわせて組み分けている。 ワンマン・レコーディングのアルバムならソロツアー、ミュージシャンとセッションをしながら制作したときはバンドツアー、という具合に。 いままではふたつのツアーをほぼ交互にやってきていて、順番からいけばバンドツアーなのだけれど、 今年はデビュー10周年記念ということでいろいろあるらしく変則的になっている。

ソロライブだからといって、あなどってはいけない。
よくもまあ、たった一人でこんなに多彩な音を出せるなと、今さらながら感心する。

しっとりとしたギター一本の弾き語りもあるが、ノリのいい曲では、サンプリングマシンをフルに使う。 その場で、パンディロ(サンバとかで使われるタンバリンみたいなやつです)をぱらぱらっと叩いて、 或いはアコギでリフを刻み、サンプリングしてループのリズムパターンにする。 それに生アコギをのっけてグルーヴを生み出し、お馴染みのラブソングをやられると目がくらくらしてくる。 何度聞いてもカッコイイ。ソロライブは(ファンクラブイベントも含め)これで3度目だが、 まったく飽きがこない。 リズムパターンは、同じ曲でもライブによって微妙に違うのだ。 歌詞がはじまるまで何の曲かわからないことも多々あり、とてもワクワクする。
今回はとくに、デビュー10周年記念ライブということで、選曲はファンには垂涎ものの名曲ばかり。 同じソロとはいえ、前回の脱力系ライブ(OKST2003)とは雰囲気もノリも全然違う。 エキサイト、エキサイト。アーチスト本人が「すげ〜すげ〜」と興奮を抑えられない場面も。 個人的には全盛期のボ・ガンボスを思いださせるような熱いライブであった。

それにしても、思う。
ここまで曲のアレンジを変えてしまっても、おなじ曲として聞こえてしまうのだから、 ポップミュージックってほんとうに面白い。「OKST2000」のDVDで見たしっとりボサノバ系の「セロリ」と、 今回のバカ騒ぎ爆発サンバ(言い過ぎ?)の「セロリ」とを、 たとえばバッハやブラームスに聞かせたらどうだろう...極端なたとえですが。 おなじ曲として聞こえるだろうか?  歌詞とメロディ(とコード)さえあれば、あとは自由で変幻自在。 山崎まさよしはポップミュージックのマジックを知り抜いている。 山下達郎のように、自分のイメージどおりの音を再現することにこだわるアーチストももちろんいるが、 アイデアと自分のグルーヴさえあればこれだけの冒険が可能なのである。

もう一度、繰り返す。
ぼくは山崎まさよしが大好きである。

山崎まさよしはいつも「小さな風景」のそばにいる。
内田勘太郎や近藤房乃介など、日本の名だたるブルースマンと肩を並べるミュージシャンシップを持ちながら、 おれはブルース好きやけど極めなくていいんや、といういい意味でのこだわりのなさが彼にはある。 自分を徹底的に追いつめてどこまで音楽を追求出来るかという気負いが感じられないのだ。 天賦の才としかいいようがないグルーヴと声を持ち、 これだけ売れるアーチストになった今でも、独特の生活感というか、桜木町でマネキン運びに汗を流すさえないフリーターのお兄ちゃんが、 彼の中には棲んでいる。
いつかはどこかで根は張るんだろうと思いつつ、 一人暮らしをだらだらつづけているお兄ちゃん。そんなキャラが若い女性のハートを掴んでいるのかも知れない。 福山雅治が抱かれたい男ナンバー1ならば、山崎まさよしはトランクスを洗ってやりたい男ナンバー1?  ライブではかならず誰かが「結婚してえ〜」と雄叫び(もちろん女性)を上げるし...笑。

というわけでOKST2005、よかったよかった。

あえて苦言を呈すれば、PAの調子がやや悪くて残念だったこと 。
会場の佐賀文化会館は、客席数の割りにはどうもせまっ苦しく感じる。近場でいうと、わが町のアルカスSASEBO大ホールや長崎市公会堂、 福岡市民会館にくらべるとなぜか閉塞感があり、(悪口ついでにいうと...)ロビーも狭くて雰囲気がない。 セッティングが難しかったのかも知れないが、せめて音量をもう少し絞れなかったのか。

そもそもPAの音響って、スタジオの録音機材のような技術的進歩があるのだろうか。 PAを使わず、楽器と人間の声をダイレクトに楽しめるのはクラシックだけである。 最近はクラシックのコンサートに足を運ぶことが多いせいか、音の悪さにはどうしても敏感になる。 「ライブ」とはいいながら、生の山崎まさよしの声やアコギが聞けるわけではない。 今回のOKSTツアーのようにアコースティック・サウンド主体のライブもあるのだから、 原音に忠実かつ大音量で再生できるような技術の進歩があってもいいじゃないか。ポップ系のコンサートにも何十年も通っているが、 進歩というものをあまり感じない。いいアーチスト(会場)はいつ聴いてもいいし、悪いのはいつも悪い。

最後にもうひと言。
ぼくは山崎まさよしが大好きである。
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by thatness | 2005-04-06 15:28 | 音楽_rock,others

鳥になりたい

3月31日、木曜日。午後2時過ぎ。
小春日和の午後、髪を切るために理髪店へと歩いていた。
歩きなれた坂道を下っていると、「があがあ」と威勢のいい鳥たちの啼き声がどこからともなく聞こえてくる。 あきらかに、スズメやシジュウカラなどの鳴禽類(めいきんるい)とはちがう声。反射的に、空を見上げた。

わがS市は、鹿児島県の出水市で越冬したナベヅル、マナヅルたちの北帰行ルートの真下にあたる。 2月から3月にかけて、運がよければ、編隊を作りゆうゆうと巡航する彼らを見ることができるが、正直かなり難しい。 彼らは標高にして相当高い位置を飛ぶ。啼き声もかすかにしか聞こえない。 そもそも普通に生活していると仕事に学校にと忙しく、空を見上げて鳥を探している暇などない。

その日、幸運だったのは、ぼくの仕事が休みだったこと。 ツルたちの進路を横切るように、上空を自衛隊の大型ヘリがたまたま飛行していたこと。

見当をつけて遠い山の尾根をぼんやり眺めていたぼくの視界に、 低空(目算で100メートル前後)飛行するすごい数のツルたちが突然飛び込んできた。 両翼で200メートルはあろうかという見事なV字型の編隊である。 自衛隊のヘリにおどろいて一気に高度を落としたのではないかと(素人なりに)推測する...。 ぼくにはツルたち一羽一羽がはっきりと見えた。 翼と胴体は黒く、首から上が白い。ナベヅルであったろうかと思う。

母に、わが家の真上でものすごい空中ショーが観れるぞと携帯で連絡。
デジカメを持参しなかったのを後悔しつつ、携帯でシャッターを切りまくる。

信じられないような偶然だが、ナベヅルたちはぼくの真上で編隊をばらばらに崩した。 群れは空中で細長くのびたり風船のように膨らんだりしている。上昇気流を探しているのだろうか。 「があがあ」という啼き声が夕立のように地上に降りそそぐ様は、圧巻としかいいようがなかった。 空を見上げていると、ここが地方都市の住宅地であることを忘れてしまう。まるで海の真ん中にいるようである。

そうこうしているうちに、もうひとつV字型編隊がやって来た。 先発隊は彼らを待っていたのだろうか? ふたつの群れは合流してさらに大きくなり、 やがて渦を巻くような動きに変わった。 一羽一羽が、それぞれ旋回しつつ姿が小さくなっていく。 上昇しているのだ。 黒い翼を持った体はみるみるうすい灰色の点になり、空の青さに溶け込んでいく。 気がつくと、ふたたび雄大なV字の編隊をつくり、 さらに力強く「があがあ」と啼きながら北西の方角へと 飛び去っていったのだった...。

ぼくはおしえられたのである。

気が遠くなりそうな高度までぐいぐい上昇していく、渡り鳥の生命力。
自分が暮らすこの町の上にも、 これほど広くまぶしい青空がひろがっているという事実。 そして、ナベヅルたちの啼き声を聴かせてくれた自分の町の静けさ。

これから彼らは、対馬海峡を渡り、朝鮮半島の非武装地帯、 あるいは黄河の河口流域へむかう。 さらに何ヶ月もかけて、繁殖地の中国東北部やシベリアへ。 道中の無事を、心から祈りたいと思う。
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by thatness | 2005-04-01 15:12 | ある日