sort of day

S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31
カテゴリ
以前の記事
フォロー中のブログ
検索
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧

<   2005年 05月 ( 3 )   > この月の画像一覧


マルタ・アルゲリッチ、スペシャルコンサート

クラシックを本格的に聴きはじめたころ、ホロビッツもアラウもリヒテルも現役だった。 引退はしていたがケンプもまだ存命。エッシェンバッハやアシュケナージはまだ指揮台に立ったことはなく、 メジャーレーベルを支える若手の人気ピアニストだった。あれから20数年、世代交代は進み、 人気ピアニストの顔ぶれはすっかり変わってしまったけれど、 アルゲリッチ、ポリーニ、グールドの3人は未だにこの世界の横綱である。世界中で、彼らの人気はまったく揺らぐところがない。

コンサートそのものを完全に否定していた故グールドは別にして、 ポリーニとアルゲリッチはいまでも頻繁に来日して演奏活動をしている。
ポリーニは首都圏で現代音楽を中心にしたイヴェントを企画したり、ソロコンサートも開いているが、チケットプライスは高く、 入手も困難。敷居も高い。アルゲリッチも別府アルゲリッチ音楽祭のおかげで毎年来日はするものの、 70年代から積極的だった室内楽に活動をシフトさせ、ソロコンサートをほとんど開かなくなった。 唯一の例外は95年に別府のコンサートで、その後は皆無ではないかと思う。本拠地のヨーロッパでも、 おそらく10年に一度、あるかないか...ではないのか。

++

高校生のころ、お小遣いをこつこつためては彼らのレコードを集めていた。 アルゲリッチのショパンやラベル、ポリーニのウエーベルンやシェーンベルグ、それにグールドのバッハなど。 それこそ擦り切れるように聴き、ペダルのきしむ音、息づかい、鼻歌にいたるノイズまでもぼくの記憶に残っている。 思い入れは深いが、大ピアニストである彼らの演奏を生で聴けるなんて、夢にも思っていなかった。

ところがなんと、アルゲリッチが別府の音楽祭の共催イヴェントとして、わがS市でコンサートを開くという。 腰を抜かした。子分の若手ピアニストとの共演なのでソロではないが、彼女の演奏を弦楽器や管楽器なしでたっぷりと聴ける。 チケットプライスも、この大ピアニストにしてはきわめて良心的な値段。 アルカスSASEBOの企画力を賞賛すべきか、スポンサーのジャパネットたかたとプレナス(ほっかほか亭)に感謝すべきか...。 とにかくチケットを買った。

5月13日、金曜日。その日はやって来たが、 (気分屋でキャンセルも少なくない)アルゲリッチはほんとうに来てくれるのか?  期待と不安で最前列やや左寄りのベストポジションの席にて開演を待つ。

一曲目はフリードリヒ・グルダの「前奏曲とフーガ」である。 グルダの曲なので、アルゲリッチがソロで弾いてくれるのではないかと期待したのだけれど、 ステージ下手のドアから出てきたのは子分のアレクサンドル・グルニングというピアニストであった。
グルニングは1973年、ベルギー生まれ。インドネシア人とポーランド人を両親に持つということで、 エスニックな顔立ちがなかなかのイケメンである。ただ、プロとしてのキャリアはほとんどなくて、 別府や札幌のPMFに参加しつつデビューの機会を狙っている、という感じだろうか。

グルダの曲は、緊張感があってなかなかよかった。楽想はまったくのジャズ。それもコンテンポラリーな感じの、 うまい言葉が見つからないのであえていうが、いかにも(グルダと共演したこともある)チック・コリアが書きそうな曲。 楽しめたが、「前奏曲とフーガ」というタイトル、 そもそも「前奏曲とフーガ」というコンセプトでジャズを書くという試みには抵抗感を感じた。 ビートルズやコルトレーンを「芸術家」として持ち上げたがる文化人臭さみたいな、 無意識の高慢さがなんとなく感じられるのである。ようするに、リスクを背負わない折衷主義。

つぎの曲は、やはりグルニングのソロによるベートーヴェンの「アパッショナータ」ソナタである。 これは...感動した。何度も何度もいろんなピアニストで聴いてきた曲なのに、生演奏を集中して聴くと、 ベートーヴェンの凄さに打ちのめされてしまう。大胆な楽想や構成。 こんなにも斬新な音楽を「クラシック」などと呼んでいいのだろうか...なんて。 「アパッショナータ」ソナタの前では、グルダの曲はまったく色褪せてしまった。
グルニングの演奏は、やや軽量級。どっしりした構成感というものは足りないものの、 そのかわり個性的なリズムと明るいタッチがあり、色彩感あふれる音で聴衆を惹きつける。 第2楽章はかなりテンポを揺らしながらテーマを弾き、 その後の変奏も微妙にリズムがふらつくようなシンコペーションで音楽を走らせる。 この楽章には、苦悩の芸術家が(レンブラントの絵のように)夜の闇に内省するというようなイメージを持っていたのだけど、 グルニングの演奏で聴くと、親しい友人同士が深夜酒を酌み交わし話し込んでいるような、 どことなく開放的なイメージを得た。内向や孤独に走らない、外向的な(しかし饒舌にならない) ベートーヴェンといったらいいだろうか。テクニック、スタインウエイのサウンドは申し分なく、 演奏後には「ブラボー」の声も会場から聞こえた。

3曲目でようやくアルゲリッチが登場する。
スタインウエイが2台並べられ、下手のドアが開くとアルゲリッチはグルニングと雑談をしながらステージに歩いていきた。 アルゲリッチは完全にリラックスしている。ぼくのほんとうに目の前、 5メートルと離れていない位置に腰掛けたのだけど、無駄な緊張がなく、 演奏にのぞむというよりランチでもとりそうな雰囲気だ。大家の余裕なのだろうか。

演奏はすぐにはじまった。曲はチャイコフスキーの組曲「くるみ割り人形」(2台ピアノ版)である。 ぼくはロシアの作曲家の音楽をあまり好まないし、よく知らない。 それでも「くるみ割り人形」の管弦楽曲版は昔アンセルメのレコードでよく聴いていたので、 なじみ深くリラックスして楽しめるのではないかと思っていた。 ところが、小序曲の最初の一音が打鍵された瞬間、頭蓋骨のてっぺんにくさびを打ち込まれたような衝撃を受けた。 音が、音が...。こんなに美しいピアノの音はいままで聴いたことがなかった。 組曲「くるみ割り人形」には、チャイコフスキーらしい甘いメロディがふんだんに出てくるが、 交響曲にありがちな狂ったようなメロディのユニゾン進行もなく、躁鬱病すら連想させる落差の激しい楽想もない。 肩のこらない小品集...のはずなのだが、一音一音の美しさ、強い存在感、繊細さに息が詰まりそうになってしまった。 高校生のころ、部活で弓道をやっていたのだけど、呼吸を止め、弓を引き絞って的に意識を集中させたときのように、 音に全神経が集中する。しかし息が詰まって追いつめられるようなことはなく、音楽に集中すればするほど、 愛くるしくチャーミングな「くるみ割り人形」が心のなかに広がっていく...。奇跡、奇跡である。

ほかのひとはどう聴いたかわからない。演奏中も(高校生がやたら多かった)会場はざわついていたし、 隣の席の若い女性は退屈そうに下を向いたままだった。ただ、ぼくは「花のワルツ」が終わり、 アルゲリッチとグルニングが引き上げたあとしばらく席を立つことができなかった。いわゆる通俗的で、 それほど指の技術も(おそらく)いらない曲でも、これだけの感性と経験をもった演奏家の手にかかると、 途方もない音楽になるのだ。谷川俊太郎さんが、平易な言葉しか使わないのに素晴らしい詩を書くのと同じ。

休憩をはさんで、最後に用意されたプログラムはプロコフィエフのバレエ曲「シンデレラ」からの組曲(2台ピアノ版)。 日本初演だそうである。アルゲリッチは、ミハエル・プレトニョフの編曲・共演でこの曲を録音しているようだが、 今回のプログラムもたぶん同じものなんだろう。

プロコフィエフの音楽は、いくつかのピアノソナタを知っているだけでほとんど聴いたことがない。 「シンデレラ」も全然知らない曲ではあったけれど、迫力満点の演奏でまったく飽きることがなかった。 愛くるしく、甘い音楽で聴かせる「くるみ割り人形」と異なり、 この曲は演奏家の技量をはかる試金石といってもいいようなハイ・レベルな音楽であったと思う。 譜めくりのお姉さんもしばしば演奏についていけなくて、タイミングを何度もはずしていたし...。
グルニングの打鍵も素晴らしかったが、アルゲリッチもまた、還暦を過ぎているにもかかわらずテクニックはまったく落ちていない。 背筋を自然に伸ばし、肘を柔らかくして、卵形にまるめた手のひらからやわらかく指を鍵盤に落していく。 基本通りのまったく無駄のない動き。 内田光子のようにやたらとのけぞったり、見苦しい恍惚(あるいは苦悶の)表情を見せることもない。 なのにスタインウエイからは、プロコフィエフ特有の鋼鉄のように強靱なサウンドが、 しなやかさが失われることなく放たれつづける。
完全無比のテクニックを誇ったポリーニでさえ、昨今はミスタッチが少なくないと聞く。 ぼくはアルゲリッチの指を食い入るように見つづけていた。彼女はどんなに速いパッセージでも、 ミリ単位で自分の指をコントロールしている。あの『ラベル名演集』での「夜のガスパール」、 とくに一曲目の「オンディーヌ」の驚異的なサウンドの秘密がようやくわかった(ような気がした)。

アルゲリッチは、自由奔放で、感性の演奏家とよく言われる。 眼光紙背に徹する譜読みで音楽を掌握するのではなく、直感的、即興的インスピレーションで音楽と共感し、演奏を繰りひろげる。 しかし、彼女の最高の天分は、運動神経なのではないか。 決しておおげさな表現ではなく、鳥の羽根一枚あるかないかの感覚で、打鍵のコントロールを自由にできる。 その微細なサウンドのボキャブラリーが、豊穣な音楽を生み出す可能性を開き、インスピレーションを養っているのではないか。

プロコフィエフが終わり、アンコールではついにソロが...と期待したが、最後はグルニングとの連弾であった。 (1台のピアノの連弾するときは、椅子を縦に並べるのですね。初めて知りました) 曲はラベルの『マ・メール・ロア』から「パゴダの女王レドロネット」と「 美女と野獣の対話」の2曲。 管弦楽組曲版はもちろん、ピアノ連弾曲版も大好きな曲。 6才と10才の子供のための曲として書かれたものだが、 シンプルな書法が透明感あふれるメランコリーをかもし出す名曲である。 アルゲリッチとグルニングは、最後のさいごまで手綱をゆるめることなく、素晴らしい演奏を披露してくれた。 天にも昇るような気持ちとは、このことをいうのだろうか。しみじみと噛みしめるように耳を傾けた。

来年はアルゲリッチ音楽祭に行ってみるのもいいかな。 願わくはラベルのト長調の協奏曲でもやってくれれば最高である。 グルニングにも、ぜひとも大成してもらいたいと思う。 その折りには、このホールをひとりで満席にして、聴衆を興奮させてもらいたいものである。

++
マルタ・アルゲリッチ、スペシャルコンサート
2005年5月13日・金曜日
アルカスSASEBO大ホール

e0038977_1540298.jpg

[PR]

by thatness | 2005-05-31 15:36 | 音楽_classic

刹那消滅

休日の朝。
目を覚ましてぼんやりと部屋の隅を眺めていると、 ほんの...ほんの一瞬だが一眼レフのシャッターが下りるように視界が完全に暗転した。 まばたきのようだけど、まばたきではない。目にもとまらぬ速さで光が消滅して、すぐ元に戻ったのだ。

何が起こったのだろう? そのままぼんやり眺めた視線の先に、5以上年前から部屋に生けているミリオンバンブーが目に入った。 雑貨屋で一本200円くらいで売っているありふれた観葉植物だが、この植物の生命力の強さが好きで、 コップに入れて何本か育てている。まだ一本も枯れていない。

「そうだ。しばらく水を全然やってないぞ」

不意に気がつき、あわててコップの中をのぞいてみると、びっしりと詰まった根がからからになっている。 すぐに水道水を汲んできて、水を継ぎ足した。視界のほんの一瞬の暗転が、ミリオンバンブーへの水やりを思い出させてくれたのだ。

仏教には「刹那生滅」という考え方がある。

人間のいのちは、宇宙そのものから与えられるパルスによって、 ちょうど蛍光灯のように規則正しく点いたり消えたりしているのだそうだ。 刹那というのはその時間的な長さで、道元の『正法眼蔵』の記述などによると、一刹那は約75分の1秒にあたるという。 つまり、人間のいのちは、75分の1秒の速度で明滅を繰り返している。 宮沢賢治が『春と修羅』の序文でいう「因果交流電灯のひとつの青い照明です」とはこのことだという。 (『仏教のキーワード』紀野一義・講談社現代新書)

長いつきあいになるミリオンバンブーは、自分の「刹那生滅」を見せて水分をせがんだのだろうか。 わからないが、そういうことにして記憶にとどめておきたいと思う。自分の身に降りかかったことは、信じてよい。 客観的事実ではないし主観的ともいえないが、自分と世界の間で間違いなく起こった真実として認定したいのである。
[PR]

by thatness | 2005-05-30 15:14 | ある日

フェルメール・クァルテットの素晴らしい世界

朝日新聞の朝刊で、フェルメール・クァルテットが来日公演中であることを知った。 東京の紀尾井ホールのオープン10周年記念イベントにに、 アルバン・ベルク四重奏団、 ジュリアード四重奏団とともに招かれ、各地で公演しているのである。 あわててスケジュールをネットで調べたのだけど、 近場での公演はないようである。残念、残念、残念。

フェルメール・クァルテットのことを知ったのは、いまから6年前ほど前だろうか。 ベートーヴェンの弦楽四重奏曲全集が一枚千円のバジェット盤で再発されてから。 たまたま安かったのと、『レコード芸術』誌の評が(あつかいは小さかったが)ほぼ絶賛の評価で興味がわき、試しに一枚、 15番のディスクを買いすっかり魅了されてしまった。 演奏は昨今の四重奏団らしく高い集中力を保ち、音の線もよく分離する。 しかし、 音色はとてもまろやかでメタリックなところが一切ない。そのぶんスピード感や大胆さには欠けるかもしれないが、 優しさと繊細さがあふれ、とてもエモーショナル。テンポも自然で、 ベートーヴェンが天国から指示を出しているのではないかと思うほど。 それまで所有していたアルバン・ベルク四重奏団の旧盤をすべて処分して、フェルメール・クァルテットで全曲を揃えた。

ベートーヴェンが最晩年に書いた弦楽四重奏曲は、クラシック音楽の最高到達点といわれている。 難しいことはわからないが、 たしかに15番の第3楽章「病癒えたものの神に捧げる感謝の歌」をはじめ、 各曲に残されている精神性の深い緩徐楽章は素晴らしい。 気分が衰弱した時などにじっくり聞くと、 冷たい冬の大気が陽の光で暖められるように、魂を癒してくれる。 ぼくにとっては、 人生のミラクル・ドラッグといってもいいくらいの存在で、 何があってもフェルメール・クァルテットのディスクを手放すことはないだろう。

朝日新聞の(4月23日の紀尾井ホール)記事から。

「アルバン・ベルク四重奏団の場合、速く、大きい弓使いで豊かな倍音を響かせる傾向があるが、 このフェルメール・クァルテットは、いずれもあまり弓を走らせすぎず、しつかり鳴っている実音が響き合う。 そして、第1バイオリンがソリスティクにならず、完全にアンサンブルに溶け込んでいるのも特徴。 各声部の受け渡しの部分は、非常に丁寧で、結果として見事に求心力のあるアンサンブルになる」(伊東信宏氏・朝日新聞西部版4月29日)

なるほど。そうだったのか、と思う。
どうりで、音に透明感があって、楽器がきちんと鳴っているような気がするわけだ。 アルバン・ベルク四重奏団とは、奏法だけでなくおそらくピッチもかなり違うのだろう。 曲の解釈云々以前に、アンサンブルのコンセプトがかなり異なっていたのだ。

ぼくはアルバン・ベルク四重奏団の実演を地元のホール (紀尾井ホールをやや小ぶりにした感じのシューボックス型のいいホールです) で聞いたことがある。 ベートーヴェンの14番は素晴らしかった。リーダーのギュンター・ピヒラー氏はじめ、 各奏者は全身をはげしく動かしつつ艶やかな音を太陽のように放射する。
四人の奏者が演奏しているというより、ホール全体がひとつの楽器となり、 音の胎内で遊んでいるような感覚があったと思う。 同じホール。別の機会に、フェルメール・クァルテットの弟子筋にあたる上海クァルテットのコンサートを聴いたときは、 まったく違う音楽を聞かせてくれた。それはまさに前述の朝日新聞の記事にあるような、 第1ヴァイオリンがソリスティックにならない、 繊細で求心力のあるアンサンブルだったのである。4人の演奏家がたがいの音をしっかりと聞きあい、 息をあわせて弓を弾いているのが手に取るようにわかる。アンサンブルの原点をみるようなコンサートであったと記憶している。

アルバン・ベルク四重奏団の演奏スタイルは、昨今の弦楽四重奏演奏のひとつの世界標準になっている。 緻密で切れ味のよい刃物をふるったような、シャープな音。第1ヴァイオリンが明確なリーダシップを保持し、 スピード感と雄大なスケールを併せ持った演奏を展開する。つまらなくはないが、 ぼくはやはりフェルメール・クァルテット(あるいは上海クァルテットのような)のような、 全体のアンサンブル重視、エモーショナルで、まろやかな演奏のほうが好きである。すくなくとも、現役の弦楽四重奏団ではベスト。

紀尾井ホールの今回の10周年記念イベントには「世界のトップスリーを聴く」とのコピーがついている。 まあ...まっとうな選択ではあるけど、フェルメール・クァルテットは他のふたつの団体と異なり、 一般的な知名度はまだまだ低い。 メジャーレーベルとの契約がないので、録音が少なくマスコミの話題にあがりにくいのだ。 現在、かろうじて入手可能なディスクは前述したベートーヴェンの全集のバジェット盤 (AmazonとTOWERのサイトに在庫あり)の他、 数点に過ぎない。 ナクソスからバルトークの全集がリリースされる予定があるときくが、 信じられないことにハイドンの「エルディーディ四重奏曲集」、 モーツアルトの「ハイドンセット」の録音がまだないのである。 数多あるクラシックレーベルはいったい何をしているんだろうか...。未来の音楽愛好家のためにも録音をたくさん残して欲しい...。痛切に思う。
e0038977_15432719.gif

[PR]

by thatness | 2005-05-04 15:32 | 音楽_classic