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続・観光

view from hotel
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mameda machi
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eee kaori
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creek
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in the evening
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2005.8.28 日田
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by thatness | 2005-08-31 23:22 | 写真

日田

日田は水と樹木と、土の町ではないかと思われる。

豊かでおいしい水は稲を育て、酒を造る。樹木は建築や工芸品のマテリアルであるし、良い土からは陶芸が生まれる。 こんな土地柄なのでかつては幕府の直轄領(天領)として保護され、 財産を蓄えた商人たちは九州のお殿様相手に金融業を営みぼろ儲け。豆田町界隈には豪商たちの屋敷が建ち並び、 上方から取り寄せた贅沢な調度品(雛人形が有名)に囲まれた生活は、まさに小京都であった。
それらは貴重な観光資源として活用されているけれど、この町の雰囲気はまだまだ地味。 有名になりすぎて観光客相手のテーマパークと化した由布院のような喧噪はない。 醸造業(地酒の他、サッポロビールの工場がある)や林業、活性水素で有名になった 「日田天領水」とか地場産業がしっかりしているので、遊びに来たよそ者に(もちろん熱烈歓迎ではありましょうが...) 依存するというところがない。小京都というのは単なるキャッチフレーズではなくて、日田はまぎれもなくそういう町なのだと思う。

こういう土地柄なので、芸術家や工芸家には居心地がいいらしい。家具のデザイナーや木工の工芸家、陶芸家などなどが居を構え、 活動している。人とカネが集まる大都市ではないのに、アーチストが活動できるのは 豊かな自然に根ざした産業があるからにほかならない。たまたま日田には友人知人がいるので、 訪問のたびに詩人の方に会わせてもらったり、フリーランスの工芸家の方の仕事場をのぞかせてもらったりしているけど、 ほんとうに刺激になる。

日田とこの町に暮らす人々には、自衛隊とアメリカ軍基地に経済を依存するわが町にはない、無理のない力強さと個性を感じます。 百年二百年たっても、日田は変わりつつ変わらないだろう。
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by thatness | 2005-08-31 23:10 | ある日

観光

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大分県日田市に行きました。
散策した場所、

豆田町界隈
臨済宗岳林寺
市立郷土史料館
ギャラリー喫茶、喫茶去(きっさこ)
陶芸のお店、辺仄木(へぼのき)
夜の三隈川
などなど...。

日田は3度目の訪問。
それほど暑くもなく、快適。
ホテルでもぐっすり眠れてよかったデス。
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by thatness | 2005-08-30 13:47 | ある日

暑い。

......。
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.....暑い。
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毎朝の日課、全力疾走のあと。
夏は苦手じゃ。
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by thatness | 2005-08-26 21:39 | 写真

小日記

「ごめんくださ〜い。ごめんくださ〜い...」
「(2階より)はあああい...」

玄関に下りていくと、お隣にお住まいのご隠居さんが立っていた。 市内で幼稚園を2カ所経営されておられる方なのだけど、何年か前に息子さんに代替わりしたようで、 いまは奥さんと二人のんびり暮らしていらっしゃる。
が...ぼくは正直のところ心のなかでため息をついた。 町内の用事があるときはたいてい奥さんが来られる。間違いなく愛犬へのクレームであろうと覚悟した。

わが家の愛犬ナナ、飼い主がいうのもなんだが、まあまあお利口さんである。 まず、家族以外には絶対に吠えないし、(例外はあるが)じゃれつかない。 家族に吠えるのも夕方だけで、散歩に連れて行けとぼくを呼んでいるのである。 それ以外の時は、昼間も夜もたいてい庭でおとなしくしている。
ただ、稀に夜中に吠えてとまらないことがある。先日、妹とチビたちが帰った翌日など、寂しかったのかわんわんと庭から吠えつづけた。 生後約1年だが、もうすっかり成犬である。鳴くと、声は町内じゅうに響きわたる。 飼い主は愛犬をお利口さんと思っているが、ご近所の印象はそれとは別。母は下の奥さんと顔をあわせるたびに 「犬がうるさくてすいません〜」と頭を下げている。

ご隠居さんが来られたのがまさに鳴きまくった夜の2日後。間違いなく迷惑をかけたのである。 犬のクレームは、1度つけられるとあとが大変だ。「わかりました。何とかします」と答えたら、 ほんとになんとかしなくちゃならない。しかし、まったく鳴かないようにしつけるのは至難の技。 だって、生き物なのだから...。 声を奪う手術なんて絶対に出来ないし、頭を下げまくって謝るほかしょうがない。飼い主の責任である。

やや気まずい沈黙のあと、ご隠居さんが口を開く。

「...実はですね」
「(自然と頭が下がり)はい...」
「うちも今度...、犬を飼うことになりまして」
「...はっ?」
「ご迷惑でしょうが、あんまり鳴なかい犬種ですので...」
「(声がうわずり)はあああ〜」
「大丈夫とは思うんですが、念のため御挨拶に...」
「...すいませんっ、わざわざ」
「よろしくお願いします〜」
「(深々頭下げて)いいえっ。こちらこそ...」

ご隠居さん夫婦は、もともと愛犬家であった。数年前に死んでしまうまでは、 「犬が鳴いてご迷惑をかけます〜」と頭を下げていたのは奥さんのほうだったのである。 ご夫婦とも高齢なので、次を飼うのはあきらめていたそうだが、空き地でナナが走り回っているのをご覧になっていたようで、 どうしても欲しくなられたみたい。犬種はゴールデンレトリバーとのこと。

昼間。
コンクリートの地面で腹を出しひっくり返っている、わが愛する雑種犬を見る。 ぼくは(まあ、いまのことろ)独身なので、こいつが逝ってしまったら次の犬は飼えないだろうと思う、年齢的に。 そのとき、ほんとうにひとりで生きていけるだろうか。 大袈裟に聞こえるかも知れないけど、ペットとの死別はやはり辛いだろう。 お隣のご夫婦のように、すこし無理をしてでも飼うだろうか。

まだ下から子犬の鳴き声は聞こえてこない。ナナもたぶん、気づいていないだろう。 こやつは近所の飼い犬はもちろん、野良猫、カラスやヒヨドリからもまだ新入りとしてなめられている。 下のワンちゃんとお友達になれるといいのだが、臆病者のこいつがどういう反応をするか。 雑種だからって気後れするなよ、もちろん先輩ぶっていばったりもするな。
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by thatness | 2005-08-26 21:35 | ある日

たま(本名)

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タンゴを踊っているのでしょうか?


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まさか。夏バテでのびてます。
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by thatness | 2005-08-24 23:47 | 写真

有と無のあいだで

玄侑宗久さんの『中陰の花』(文春文庫)。

2001年に玄侑さんがこの小説で芥川賞を受賞された頃、ぼくはまだ仏教に深く共感するというところまでいってなくて、 法衣に袈裟をつけ授賞式に臨んだ姿はなんとも胡散臭かった。 僧侶というと、世襲でなんの苦労もなく財産を相続し(実はこれ、宗派によって異なるらしい。この小説ではじめて知った)、 税金もろくに払わず、檀家まわりを適当にして、あとは絵を描いたりジャズを演奏したり好きなことばっかりしている連中ではないか。 どうせ檀家まわりの余暇に好きなだけ読書してのんびり書いて...あれよあれよと有名人。

自分で書いていて情けなくなる、なんともバチあたりの第一印象である。しかしテレビでたびたび拝見するときの姿勢の美しさ、 決して早口にならず、まるでそのまま文字がイメージできるかのようなわかりやすい話しぶりに好感を持ち、 専門道場でのおもしろ体験談や、『禅的生活』、『私だけの仏教』など(読みごたえたっぷり)の新書から手をつけ、 小説も愛読するようになった。
岩波文庫の原始仏典や、鈴木大拙翁の随筆も好きだが、ぼくの仏教へのいちばんの水先案内人は彼だったかも知れない。

仏教、それはとどのつまり「人間は死んだらどうなるのか?」 「生きる苦しみはどうして消えないか?」という命題に応えることだろう...。 しかし、死は生きているかぎりわかることではない。死者のためというより、 生き残った人のための「要は気持ちの落ち着かせどころだと禅宗では考えている」のだそうだ。 けれど、人は死んだらどうなるのか、納得のいく世界観を聞きたいのが人情である。けれど、これがなかなかむずかしい。

「なあなあ、人が死にはったら、地獄に行ったり極楽に行ったり、ほんまにあるんやろか?」
「知らん」
「知らんて、あんた和尚さんやろ。どない言うてはんの、檀家さんに」
「そりゃあ相手次第や。極楽行こうと思って一所懸命生きてる人の邪魔はしないけど、今の世の中、 地獄へ行くぞって脅しても誰も聞いてくれないよ」
「せやけど訊かれるやろ、極楽はあるか、ないかって」
「たまにね」
「どない答えてんの」
「だから相手次第や。信じれば、あるんや。信じられなければ、ない」

作中の、臨済宗の僧侶則道と妻圭子の会話である。

科学万能の先進国日本で、西方浄土や輪廻転生をほんとうに信じる人がいるのかどうか。 その一方で、死別や病の苦しみに応えるため霊能者、スピリチュアルアドバイザーと呼ばれる人が有名無名を問わず、ごまんといて活動している。 完全なインチキもあれば、ほんとうに「みえる」人もいないわけではないだろう。 宗教家は大変な時代を生きているのだ(...という自覚のないお坊様も多いだろうけど)。
則道は、自らの死期を預言して逝ったおがみやウメさん、新興宗教に入信して「見性(悟り)」を得たと断言する檀家の徳さんに、 正面からぶつかることが出来ない。神通力があるわけでもなく、悟りもないからだ。 ただエピソードを受けいれ、狂言回しにのように振り回されている。

頼りなくみえるけれど、そもそも、あの世があるのかないのか、言えないのではなく言わないのが釈尊であった。 作中、則道は釈尊が弟子に語ったエピソードを反芻する。 「お前たちのすることは、目の前に矢が刺さって苦しむ人の、その矢を抜いてあげることではないか。 けっしてその矢が、どこから飛んできたかを詮索することではないのだ」と。

一見すれば、これは現代の医療現場とほとんどおなじというか、シンプルな合理的主義そのものである。 わからないものは、わからないと切って捨てるのだから。しかし釈尊には「涅槃」や「解脱」の境地という切り札がある。 禅なら「見性(悟り)」...だろうか。生きているものに死の世界はわからないにしても、それらを超えて見えるまことの世界がある。 凡夫にはこれ以上のことはいえないけれど、その存在を信じることで、生きる意味や価値が変化するということはあるに違いない。 そこを自分が受け入れて生きるかどうか、なのである。

中陰とは中有ともいい、亡くなった人が成仏するまでの(広辞苑によれば次の生を得るまでの )期間、一般的にいえば四十九日のことを指す。玄侑さんによれば、これは「有」と「無」の中間の在り方、 あるいは「陽」と「陰」のどちらでもあるような在り方であるという。 物理学的でいうと、質量とエネルギーのどちらでもあるような状態になるのだろうか。いずれにしろ常識ではかんがえられない世界。

実は則道の妻圭子は4年前に子どもを流産していて、その体験が彼女を縛りつづけている。 しかし、則道には彼女の気持ちがまったくわかっていなかった。 中陰の時空をさまよっている我が子のために、圭子はとんでもないものを拵えていて則道は驚愕する。 それは超自然的な現象でも、霊的な存在でもない。しかし、まさに中陰...。 則道には、中陰に咲いた花としかいいようがないものだった。
読者にもまたその瞬間、生死を超えた広大な世界がほんのすこし、微風が頬を撫でるように見える(...たぶん)。

そういえば、以前読んだ禅の解説書にこういう一文があった。「大海の波浪は是れ常有にも非ず、常非にも非ざるごとし」 「水の中を尋ねても、見よ、波はなし、されども波は水よりぞたつ」

小さい波は、大きい波を見ていつも肩身の狭い思いをしていた。おなじな波なのに、 どうしてこんなに大きさが違うのか...。すると、大きい波は小さい波に「自分の本体を見ていない」という。 「波は君の仮の姿で、本体は水なのだ」「君は自分の本体に気がついたとき、もう波の形に惑わされることはない」

ひとつの波は、いうまでもなくひとりひとりの人生のことだ。波の本体に水というものがあるなら、 波が崩れて消滅しても水は水として在りつづける。人生は水の流れであり、パターンにすぎない...。 しかし、波は波であるかぎり、波として生き続けるカルマを背負っているわけで、自分が波であることから逃れることは出来ない。 波で在りつつ、水であることに気がついたならば実に深い世界が広がるはずだ。

このエピソードには腑に落ちるところがあり、ぼくは「悟り」というとまずこのたとえを思い浮かべる。 その納得は「悟り」そのものでは全然ないけれど、波としての自分、本体としての水とはなんなのか、 そういう存在の在り様は信じられそうだと思っている。水は「信じれば、ある」。

仏教は、これからも追いかけようと思う。

玄有宗久さんの著作では、『中陰の花』にかぎらないが、最新の素粒子論や相対性理論、大脳生理学や現代哲学まで、 仏教以外の知の蓄積がたくさん引用されている。それでもいわゆるニューエイジ系というか、スピリチュアル系のうさん臭さがいのは、 臨済宗の専門道場で厳しい修行を積んだ経験に立ち、都合のいい憶測や幻覚にまどわされないからだ。 玄侑さんは、自分は悟ってはいないと明言している。だから「みえる」とか「わかる」とかんたんには言わない。 身技両面で教養のある人なんだと思う。

仏教が過去形の精神文化ではなく、その全貌をあらわし「この世」でほんとうに力を発揮するのはこれからかも知れない。 「一歩先」の未来を感じさせる『中陰の花』なのであった。
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by thatness | 2005-08-23 17:57 | 書物

長崎ペンギン水族館 part3

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ブルーさまざま。
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by thatness | 2005-08-21 15:49 | 写真

小日記

20日、朝。司令官キキとその部隊がようやく東北へと撤退していった。
占領統治中、まったくといっていいほど雨が降らなかったのに、この日にかぎって長崎は集中豪雨である。 雨が激しいので犬小屋でまるくなっているナナとはお別れも出来ずに、ばたばたと家を出る。 母は福岡空港まで見送りに行くが、父が動けないのでぼくは居残り。タクシーに乗り込んだところでサヨウナラ、であった。

昨年の春から服用しているクスリが切れたので、豪雨のなか外出。クリニックで処方箋をもらい薬局へ。 レコードショップでCDを眺め、なにも買わずに帰宅する。 ...なんだか疲れた。父と昼食を食べたあと、後かたづけもせずにベッドで爆睡、6時過ぎまで眠ってしまった。

今年の夏休み。あんまりのんびり出来なかったな。もちろん、40日もあるだけでも思いっきり贅沢なのだけれど、 いまひとつ気持ちに余裕がなく時間を有効に使ったという実感がない。 チビたちが来なかったらもう少し集中して創作が出来たかも知れないのだが...。

それでもあと10日ほど自由な時間がある。
実は来週の日曜日と月曜日、九州のとある「小京都」へ一泊旅行に行く予定でいる。 ホテルはビジネスになるだろうけど、友達にたのんでどこか温泉にでも行けないだろうか。 帰りは福岡にも寄るので、新装オープンしたHMVに寄ってみたいな。 ジュリアード四重奏団のモーツアルトのボックスセットがバーゲン価格で売られてるらしい。欲しいっ。

夜になっても雨が降りつづいているせいか、気温が低い。暑くないので湿度も低く、 Tシャツの下の素肌はさらさらで気持ちがいい。ひさしぶりにオアシスの『マスタープラン』を引っぱりだし、ラジカセで聴く。 がさがさの声とギターサウンドが五臓六腑に染みわたる。スピッツは駄目だが、オアシスはいい。DVD、買おうかな。
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by thatness | 2005-08-21 00:07 | ある日

長崎ペンギン水族館 part2

なぜに、我らペンギンは空を飛べぬのか?
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かんがえてます。
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思ったより難問です。
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食べてからかんがえることにしました。
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by thatness | 2005-08-17 11:41 | 写真