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<   2005年 09月 ( 9 )   > この月の画像一覧


青い板にポスター

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by thatness | 2005-09-30 23:46 | 写真

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by thatness | 2005-09-29 21:54 | 写真

9月の光

昨日から冷たい風が吹きつづいている。
ついにTシャツ一枚ではいられなくなり、長袖のボタンダウンシャツを上から羽織った。 休日のお約束、愛犬を空き地に放ち、遊んであげていると彼岸花に混じってコスモスも咲き始めているのを見つけた。 秋なのである。あれほど騒がしかった蝉の鳴き声は完全に消滅してしまっている。 港の船の汽笛や、中学校の運動会のブラスバントの吹奏が、実にクリアに耳に届く。空気が乾いているからだ。

しかし日射しはまだまだ強くて、夏からのび放題の萱の葉に反射する白い光はなんともまぶしい。 目に見えない紫外線のナイフがもろに地上に降りそそぐような、カメラ泣かせの強くて白い光である。

映画の世界では、日が沈む直前の数十分間の光をとくに大切にしていて、 この時間帯でしかカメラを回さない(と公言する)映画監督もいる(いた、と思う...)。 この時間帯の光は、低い角度で差し込むので影が長くのびるだけでなく、地上の色彩を色鮮やかに浮き上がらせる。 太陽と反対の位置に灰色の雲でもかかっていればなお素晴らしく、セガンティーニの絵画のような迫力満点の映像ができあがる。

しかし初秋の、とくに逆光の光線は風景の遠近感を完全に殺してしまう。豊かな色彩ががりがりと削り取られ、 まるでカンバスの地肌が露出してしまうかのようである。青空は澄み切ってきれいだが、この季節の強い光は、 映画にも絵画にも嫌われているのではないかと思う。

しかし、ぼくはこの初秋の強く白い光がとても気になっている。

ものに映った光が白く見えるということは、光がふくむすべての波長が吸収されずに反射しているということだ(云うまでもないけれど...)。 つまり、一見して何もない、虚無の世界が広がっているように思えるけれど、実はあらゆる光が充満している。 絵画も映画も、あらゆる風景も光の引き算で成り立っているといえる。

フランスのアーチストにミッシェル・ヴェルジュという人がいる。 任意の壁や天井に映写機を使って(フィルム等を通さず)光を投影するというインスタレーションを続けているアーチストだ。 実物を見たことはないけれど、ワタリウムの『Light Seed』展の図録を見ると、壁や天井に円形の、 あるいは矩形のまっさらな光の「窓」が映し出されているだけの(一見すると、これがアート?みたいな)作品なのだが、そこにすべての光があるという事実を前にすると、 強く惹きつけられるものがある。これはまさに、彫られるまえの石材や木材とおなじ。アートの卵であり、溶鉱炉なのである。

それはたとえば、アニッシュ・カプーアの彫刻やインスタレーションで、 作品の真ん中にブラックホールのような闇がぽっかりと口を開けているのとは対照的。 ぼくは闇というものにあまり虚無をイメージすることはない。母親の胎内のように世界の始源を見ることができるし、そこをのぞき込んだとき、 闇に光を灯すべき主体としての自己が見つかるものとかんがえている。
ヴェルジュの作品の第一印象は虚無そのものである。しかし、実はすべてがあるのだ。ただの光のなかに、 自己も闇もすべてをふくむカオスがある。アートを生み出す土と水と種子が、一律のエネルギーとして踊っているのである。

母親の胎内にいるとき、人間はたしかに完全な闇につつまれていたのだろう。 しかし反対に、さまざまな臨死体験の報告では、死の直前、暗いトンネルを抜けると強烈な光が差し込んできて、全身がつつまれるのだという。...さてさて。

いのちの原風景は、闇か、それとも光か?
9月の光に、そのヒントがかくされていないだろうか。

++
「虚無」と「充満」という、視点を教えてくださったのはmyoirinさんです。
ありがとうございました。
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by thatness | 2005-09-25 22:42 | 美術_art,photo

N県営野球場

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1回表2死満塁
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by thatness | 2005-09-20 23:29 | 写真

小日記

土曜日、テレビのNHK特集を見てふるえあがってしまった。

大阪のタクシー料金自由化による、業界の激変。。
市場そのものは限られているのにタクシーの供給過剰がすすみ、運転手の負担が増え、モラルもどんどん低下していることこと。 サービスの質は落ち、事故はふえ、違法であるはずの客引き行為が公然とおこなわれている。
終電がひけたあとの深夜、大阪駅での客引きの映像は、15年前(いまのところ)たった1度の海外旅行で訪れた中国を思い出してしまう。

民営化、自由化は、価格競争であると同時にサービスや安全の競争でなければならないのに、どうしてこういうことが起こってしまったのだろう。 はたらいてもはたらいても暮らし向きがよくならないとなると、自尊心はそこなわれ、モラルの低下をまねく。 グローバリゼーション、政府の無策などなどで日本が貧しい国転げ落ちたとき、いちばん由々しき事態は国民の自尊心の喪失、 モラルの低下ではないだろうか。

ぼくは30才で団体職員を辞めてから、正採用というものを経験していない。年金もろくに払ってこなかったし、 老後は相当貧しいものになるだろうと覚悟はしている。それでも幸せに暮らしていくぞという意志があるのは、曲がりなりにも、 自分に「これでいいのだ」という自尊心があり、健康があり、世の中にも安全とモラルがまだあるからだ。 個人的には、カネがすこしぐらい減るのは我慢できるし、身体がいうことをきかなくなるのは受け入れるしかないと思っている。 けれど、日本中があの深夜の大阪駅のようになってしまったらたまらない。

ところで、日曜日。

サッカーの九州リーグの観戦に市の郊外にある総合運動場まで、乗り合いバスで行った。 着いてみると、サッカーの「さ」の字もやってなくて、グラウンドでは「あいのうらようちえん・うんどうかい」が...。 グラウンドのスケジュールを見ると今日は公開練習のみで、九州リーグの試合は来週の日曜。あたた。

しょうがないので、となりの野球場で高校野球の地区予選を見る。 コンビニのおにぎりを頬張りながらバックネット裏から観戦。強豪チームではないので見どころはないけれど、 金属バットが硬球をはじき返すときの響き、内野ゴロがファーストのミットにおさまるときのぴしっという音、なかなか気持ちがいい。

残念だったのは、天気が悪かったのと(ほどなくして豪雨となった)、 上空をマスコミのヘリがぶんぶん飛び回ってうるさかったこと。この総合運動場のすぐそばに、陸上自衛隊の駐屯地があって、 その日ここでヘリの墜落事故があったのはマスコミ報道のとおり。 そういえばこの駐屯地は、芥川賞作家、野呂邦暢さんの名作『草のつるぎ』の舞台となった場所だった。 もうほとんど知られてないだろうが、ぼくは忘れないぞ。
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by thatness | 2005-09-19 22:26 | ある日

体験的(プチ)身体論

ずいぶん涼しくなってきた。
Tシャツ一枚にジーンズという軽装がいちばん気持ちいいのは、夏と秋の境目。まさにいまではないだろうか。 けれど日射しはまだまだ強くて、油断して日向を歩きつづけていると気分が悪くなることも。

数年前から、公立学校で臨時の職員をしている。
昨年までは中学校、今年から小学校の低学年をサポートしているのだけど、 子どもたちは元気元気。給食(...に参加するとごはんと牛乳が一緒にいただけるようになります!)の時間になると、 四方八方から話しかけてこられるので聖徳太子状態。昼休みは鬼ごっこしようよドッチボールしようよとお誘いがかかり、 ついつい我を忘れて遊んでしまうようで、かなりバテる。

とくに今週は、疲れた。帰宅して愛犬と過ごし、夕食をとってお風呂に入ると眠くて眠くてしょうがない。 サイトの更新もしなくちゃと思いつつベッドにひっくり返ると、いつのまにか朝になっている。 部屋の明りもマックも点けっぱなし。。鉛筆で何枚か絵を描いたほかは何もしなかっただなあ...と一週間をふりかえると、 今週はとくに足がむくんでぱんぱんに腫れていたことに気がついた。そういえば、仕事中にもいろいろあってよく走った。 子どもを抱っこしてぐるぐる回ってみたり、御姫さま抱っこに押し相撲...いろいろし過ぎたな。

足がむくんでしまうと、確実に脳のはたらきも落ちてしまう気がする。椅子に坐ってパソコンに向かう気力もなくなって、 ただただベッドに寝転がりたくなるのだ。足のむくみをなめてはいけない。俗に足は「第2の心臓」ともいう。 人間の身体が地球の重力でつねに引っぱられているように、血液や体液も下へ下へとひっぱられているが、 歩くことによって下半身の血管を伸縮させ、血液を上半身に押し上げている。血行をよくし、酸素摂取量も増えて脳も元気になる。まさに心臓。 足を動かせなかったり酷使したりすると、歩行のポンプ効果がなくなり血液も滞留してくる。ひどい場合はエコノミー症候群だ。 歩くことはいのち(と意識)を側面から支えているわけで、身体がおとろえ歩けなくなるということは、 単に行動半径が縮まってしまう以上の意味があるのではないかと思う。

中学校の道徳では、心のある場所はどこかと生徒たちに問いかけ、脳であると教えていた。 しかし、正確にいうとそれは「意識」であって心ではないのだろう。 心が身体全体と切り離してかんがえられないことはデカルトの『情念論』にも書いてある...。 足がむくんで疲れたとき、ぼくらは心もシンクロして疲れている。 身体をちゃんとマッサージできれば、心も息を吹き返す。 心をマッサージすれば、身体の調子が戻るのと同じように。

夕方。愛犬とともに散歩。

規則正しく左右の足を動かしつつ、下半身に血液を押し上げていくポンプのイメージを重ねてみる...。なかなか面白い。 生命維持にかかわる筋肉は心臓もふくめほとんどが不随意筋であるので、自分の生命維持を体感するのはかなりむずかしい。
けれど、足の筋肉や横隔膜など、生命維持と随意筋がクロスする場所を意識しイメージすると、生命を体感するチャンネルが開く。 深呼吸とおなじように、歩くこともまた、生きているなあという深々とした想いをあふれさせてくれる。

こんな発見があるなんて...。
やっぱり、足のむくみをなめてはいけない。
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by thatness | 2005-09-17 13:45 | わたし

『エピソード3・シスの復讐』

見ました。
アナキンがダークサイドに落ちる、新3部作の最終作『シスの復讐』。

エンドロールが上がってきての率直な感想は、自分が60年代生まれでよかったなあということである...。 旧3部作、第1作は高校1年の時にリアルタイムで見た。 つまり、ライトセーバーもダースベイダーも、愉快なR2-D2のことも何も知らずに映画館のスクリーンでいきなり出会ったということだ。 インパクトは強烈であった。 つづく『帝国の逆襲』、『ジュダイの帰還』もストーリーは手堅く、メカやキャラクターのアイデアも豊富で実に面白かった。
団塊の世代にビートルズとベトナム戦争があったように、ぼくらには「スターウオーズ」とパンクロックと教授(坂本龍一)があったのである。では、1999年からスタートした新3部作は、新しい「スターウオーズ」世代を作り出せただろうか。

『シスの復讐』はアナキンがダークサイドに堕ち、オビワンとの宿命の対決に追い込まれるエピソードの核心が明らかになるが、 アナキンの追いつめられ方が薄っぺらで迫力に欠ける。身を引き裂かれるような「設定」はあっても葛藤として伝わってこない。 ダークサイドそのものも、猛威をふるってジュダイ騎士を殲滅するという描写が中途半端なので身も凍るようなすごみがない。 伏線を張りすぎているので、かんたんに先が見えてドラマにならないのだ。
ウエブサイト「映画瓦版」の服部弘一郎さんは、そのコラムのなかで「コッポラが撮っていたら、 あるいは映画史に残る傑作になったかもしれない」と書いている。アナキンを『ゴッドファーザー』のマイケル・コルレオーネにしてしまえば、すごみのある映画になっていたはずという意見である。これは卓見だと思った。

ただそれ以前の問題として、ダースベイダー誕生のエピソードのみを軸に、 2時間強の映画を3本作ることはそもそも無理があったのではないかと思うがどうだろう。 アナキンは、新3部作で描かれているような心の弱さと葛藤をつねにかかえている内向的な人物としてでなく、 ジュダイ騎士の若き英雄としてもっと活躍させてもよかったのではないか。 ちょうどアーサー王伝説で有名な騎士ラーンスロットのように...。 最初の2作で英雄アナキンの大活躍と共和国の繁栄を観客すら信じて疑わないようなレベルまでドラマを高め、3作目に突入。 アナキンがスキを突かれ、皇帝に上りつめたナポレオンが悲惨な最期を遂げるように坂道を転がり落ちるプロセスを一気呵成に描く。 ...てな感じだと中身の濃いドラマになったかなあと、極東の一観客は思うのである。

スターウオーズの第1作は公開当時、莫大な資金を投入した荒唐無稽のおとぎ話との報道や評価が一般的だった。 しかしながらこれは、大傑作ではないかも知れないけれど、映画史に残る名作であるのは間違いないと思う。...とくに、ふたつの意味で。

ひとつ目は、映画に新しい宇宙空間と未来世界、SFのイメージを提供したこと。 1作目でぼくが最高に気に入ったのは、ディテールが人間臭かったことだ。 ハン・ソロ船長やど田舎の農夫マーク・ハミル、愉快なR2-D2とC3POなどキャラクターはいうまでもない。 おんぼろ貨物船のミレミアム・ファルコン(昇降ハッチのシャフトにこびりついたオイル痕!)や、 (2作目に出てくるのだけれど)賞金稼ぎボバ・フェットの傷だらけのスーツ。 スターウオーズが存在しなければ、 『ブレードランナー』や『トータルリコール』などアウトローな雰囲気たっぷりのSF映画は実現しなかっただろう。
もうひとつは、スターウオーズの物語やキャラクターのルーツが日本映画に認められること。 とくに黒沢明の影響は大きく、 R2-D2とC3POのコンビの元ネタは『隠し砦の三悪人』の千秋実と藤原釜足の百姓コンビであるのはあまりにも有名。 高名な映画批評家の指摘によると、ルーカスやスピルバーグの世代の映画青年は、 手本となる映画作家がいわゆるレッドパージの犠牲(ジョセフ・ロージー、ロバート・オルドリッチなどが有名)になり放逐されてしまい、 日本映画に範を求めざる負えなくなったという。その代表作として『スターウオーズ』はあるといえる。

ぼくの手元には、 『帝国の逆襲』公開時のジョージ・ルーカスのインタビュー記事(『ロッキンオン』の1980年9月号)がある。 読み直してみると、スターウオーズとは、映画青年が無知でカネのことしか頭にない映画会社と闘いつつ作り上げた、 夢のインディーズムービーだったことがよくわかる。 『大地震』とか『タワーリングインフェルノ』とか(もはや誰も知らないだろうな...笑)、 メジャースタジオが利潤追求のために製作したスペクタクル映画とは根本的に違うのである。 スピルバーグの『未知との遭遇』もそうだけど、 才能ある青年がイマジネーションを無邪気にスクリーンにぶつけた爽快感が横溢しているのである。

新3部作は、これからどういう評価が残るのだろう。

ぼくは3作品を見て(というか、つきあって)、これはムービーだろうかという疑義を最後まで捨てきれなかった。 映像も音も迫力満点で、アイデアにあふれているが、記憶に残るようなものがない。ただただ派手なだけ。 キャラクターにも人間臭さが消え、宇宙都市も『鉄腕アトム』や『火の鳥』に出てきそうなつるつるした感じのものに変わった。 結果、どこに感情移入していいのかわからない。すぐれたデジタルコンテンツであることは疑いようがないが、映画館に足をはこんだ以上見せてくれるのはムービーでなければならない...。

唯一(皮肉でもなんでもなく)まっとうに評価できるのが、新3部作でもあのスターウオーズ・ファンファーレが高らかに鳴り響いたこと。 あのファンファーレは、 実は映画の前に流れるおなじみの20世紀フォックス・ファンファーレ(1935年の作曲)と同じ変ロ長調で書かれている。 20世紀フォックス・ファンファーレを作曲したのはアルフレッド・ニューマンという映画史に名を残す映画音楽作曲家だ。 ジョン・ウイリアムスはハリウッドでは彼の弟子筋にあたり、スターウオーズファンファーレは、 フル・オーケストラを使った華麗なスコアが特徴だった師匠(と、往年のハリウッド黄金時代)をあきらかに意識した、オマージュに他ならないと思う。

あれだけデジタル化にこだわるルーカスが、 徹底してフル・オーケストラのアナログサウンドにこだわるのは面白い。 最先端のデジタルコンテンツに、ハリウッド黄金時代の残照がちらちらと輝いてみえるのは理屈でかんがえれば奇妙だが、至福のひとときではある。


「映画瓦版」
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by thatness | 2005-09-11 00:59 | 映画

台風一過

午後3時頃。暴風雨。
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午後5時頃。風雨、ややおさまる。空が真っ赤。
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by thatness | 2005-09-06 21:57 | 写真

続・日田

最後にもうひとつだけ、日田でとても好きなスポットがあるのでご紹介です。

郊外の北友田という地区に、岳林寺という古刹がある。
南北朝時代、後醍醐天皇の勅願によって開かれたという禅寺で、 開山は中国からの渡来僧、明極楚俊(みんきそしゅん)という方だそうだ。ネットでこの僧について調べてみると、 南宋の滅亡をきっかけに日本に渡来し、後醍醐天皇の帰依を得て建長寺や南禅寺などに歴住、 臨済禅の普及につとめた歴史に残る高僧のようである。 岳林寺は、朝廷の直轄領である日田の宗教的拠点を確立するためにこの高僧を招き、建立されたもの。

なんでも朝廷の勅願寺は九州ではここ岳林寺だけだとか。たしかに本堂の屋根瓦には菊のご紋がはめ込まれているし、 山門とは別に勅使のための専用の門まである。まさに由緒正しいというか、少々敷居が高いような気がしないでもないお寺である。

けれど、岳林寺の雰囲気はとても好きである。
古刹ではあるけれど、まったく観光地ではないので、いつ訪問(今回は2度目)しても人気というものが全然無い。 敷地には広葉樹らしき巨樹が生い茂り、蝉時雨のシャワーを浴びていると、まるで温泉にでもつかっているような気分になる。 山岳信仰の神社に感じるようなスピリチュアルな雰囲気もない。 ようするにここは、(古刹ではあるが)地元の檀家さん以外は訪問する人も少ないごく普通の山寺なのだ。でもそこがいい。 汗をだらだら流しながら、台風が来たなら倒れそうな五重塔や六角堂(...ちょっと心配)を眺め、ぼんやりとベンチに腰をおろす。 なにもかんがえない。ここはいつ来てもいいなと、ただ思うだけである。

このお寺には、小規模ながら市立の郷土史料館が併設してあって、見応えのある文物がそろっている。 鏃や土器の破片みたいなものもあるが、文物のほとんどは岳林寺所蔵の仏画や仏像、書状など。後醍醐天皇直筆の書状、 明極楚俊の墨跡などを見ると、全然わからんけどすごい。 南北朝時代作の釈迦三尊像(どうして本堂に置いてないのだ?)、 画面から飛び出してきそうな迫力の寒山拾得図(禅ではよく描かれる人物です)、歴代和尚の肖像などもいい。

しかし、圧巻なのは寄木造りの明極楚俊の坐像。そのリアリズム。日本の仏師はすごかったんだなあと感嘆する。 ややうつむき加減のお顔をのぞいてみると、目はいわゆる半眼のようにみえた。 ぼくは座禅をする僧侶の姿を実際に見たことはないが、そのときはきっとこういうお顔になるのではないか。 木像は生きた人間ではないので「息」がない。その沈黙がさらに禅のすごみを感じさせてくれたように思う。

座禅をしているときの僧の脳波には、アルファ波だけでなくシータ波が出る場合もあるという。 シータ波とは人間の脳が疲労や眠気を感じる時に出る脳波で、座禅中の僧は、意識ははっきりしているのにこの波形が出せるのだという。これはいったい、何を意味するのだろう。
明極楚俊の坐像をまじまじと見つめると、この方が南北朝時代の人物とはとうてい思えなくなってきた。 むしろ、何百年、何千年か先の、未来の人間の姿のような気がしてしまう。この木像の作者はいったい誰だったんだろう。 やはり禅の心得のある人物だったのだろうか。

岳林寺、大好きです。
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by thatness | 2005-09-04 16:27 | ある日