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<   2006年 04月 ( 11 )   > この月の画像一覧


on Saturday

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by thatness | 2006-04-29 12:01 | 写真

盲亀浮木

火曜日。
目が覚めても起きられない。強い不安感と鬱。からだを折り曲げて、足先が小刻みにふるえている。 まあ、貧乏揺すりなんだけど、無理に起きない方がいいと思い、手足をのばして全身の力を抜き(不安感に襲われているときは、 これが意外と難しい)ぼんやりとそのままベッドで過ごす。...午前中はもう捨てた。眠ったり覚醒したりを繰りかえし、11時過ぎに起き出すことが出来た。 空き地に出て、跳ね回る愛犬を見ながら、ぼんやりとコーヒーを啜る。きょうは何をしても、自分を追い詰めることになりそうだ。 部屋の整理をしたり、あさってからはじまる仕事の準備をしたりしよう。適度にからだを動かす。それしかない。

いきなり話が飛ぶのだが、仏教の古い経典(雑阿含経)に「盲亀浮木」の譬えというのがあるらしい。釈尊は比丘(弟子)たちに問う。「この大海に一片の頸木(くびき、牛車の端につけて、牛に架ける部分)を投じたとする。 大海から、百年に一度だけ、盲目の亀が浮かんできて顔を出すという。その亀が頸木の孔に首を突っ込むということがあろうか?」...あるわけがない。 あれば天文学的偶然だ。釈尊はこの譬えから「人身を得て生きている」というのはこれほど希有なものと心得よ、と説いている。 ぼくはこの逸話がとても好きである。

いま読んでいる「正法眼蔵」にも、おなじような話が出てきた。
人間は死ぬとどうなるのか、肉体は滅んでも魂はそのまま生き残るのか。 心身は合一であるので、それは虫のいい妄執にすぎないと道元は一蹴しているのである。 釈尊も、来世の存在など考えるに値しないと、有名な毒矢の譬えで説いている。

もちろん、それが正しいのかどうかぼくにはわからない。来世はあるかも知れないし、ないよりはあったほうがいいと正直思うこともある。 ただ、釈尊が説いているように、いま人身を得て生きていることが希有なことであると思うべきだろう。 人として生まれることが、「盲亀浮木」とおなじくらい貴重なことだと説かれると、逆に気が楽になるから不思議だ。
では、この「盲亀浮木」の人生をどのように生きればいいのだろうか...。あまり遠くを見て大急ぎで走っても、すぐに息切れしてしまう気がする。仕事や義務に追い立てられ、押しつぶされるのもいやだ。ありふれた結論だけれど、自分の能力と時間をはかりにかけて、日々集中して有意義に生きるしかないのだと感じている。

気力があるときは、あれもこれもと何でもできる。
大切なのは、そこをスケールにしてはいけないことか。

心身が自由にならないときは、後回しにできるものはみんな後回しにして、ぼんやりすると決めたらぼんやりすればいい。 ただ今日(火曜日)は天気がいいので、部屋の整理と仕事の準備、それくらいはできそうだ。 それだけはやってみる。ひとつかふたつ何か決めて集中する。 それは一ヶ月、一年でものを考えるときも同じで、あれこれ欲張らず、ひとつだけ達成できるものがあればいいと思う。目標は柔軟に、状況に応じてゴムのように伸び縮みするのがよい。

集中してなにかをすれば、かならず余暇が生まれる。
それが、この文章を書く時間と気力をあたえてくれた。まさにご褒美だ。
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by thatness | 2006-04-26 17:42

みのもんた

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by thatness | 2006-04-24 17:46 | 写真

小日記

先月末に、福岡へ画廊巡りに行った。
作品もろくにないのに、画廊探しなんてとんでもないのはわかっている。 けれど、こういうのは1年先、2年先を見越して予約を取らないといけないようなので、いまのうちから見ておいたほうがいい。 もちろん、いきなり福岡に出るのは敷居が高いので、その前に積み上げるべき事はある。 あれこれ相談できる人はまだいないが、こちらからいろんな場所に飛び込んで、すこしづつ情報を集めたいと思う。

実は画廊巡りの最中にあれこれ面白いことがあったのだけれど、書くタイミングを逸したので封印します。御免。

福岡画廊漫遊の途中、薬院にある有名な古書店に寄り、高塚かず子さんの『天の水』と、 中公バックスの『道元』(「正法眼蔵」全巻の約3分の1を現代語訳で所収)を買い求めた。 『天の水』はなぜか地元の公立図書館に蔵書がなく、以前から欲しかった詩集。帰りの電車の中で一気に読んでしまう。 その後、4月にはいってからあれやこれやと身辺あわただしく、なかなか読書の機会がなかったが、ようやくまとまった時間が取れるようになり、 「正法眼蔵」の読書に入ることができた。これが滅法面白く、第一巻の「弁道話」で一気に引き込まれてしまう。

「三昧を実証して手を開いてみると、世界のありとあらゆるものが手の中に満ち満ちている。とても一とか多とかいう境地ではない」

一でも多でもない境地か。すごいな。言葉のあやが。

もちろん書物を読んだだけで心身脱落に1ミリでも近づけるとは思わないし、むしろどんどん離れていく可能性が大きい。 ただ、書物はときに自分を世界に還元するための「触媒」になってくれることがある。これも縁だろうと思う。
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by thatness | 2006-04-22 17:59 | ある日

西へ

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福岡、天神コア
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by thatness | 2006-04-18 21:51 | 写真

理由と探求

どうして絵を描くようになったのだろう。

思いつく理由はいろいろとあるのだけれど、ひとつには、東京から撤退してきて、生でアートに触れる機会がほとんど失われてしまったというのがある。 代わりというわけではないけれど、児童画の展覧会にはしばしば足を運んで楽しんだ。 いまでも児童画は大好きで、自分の作品は彼らの足元にも及ばないと思っている。

そしていつの間にか、身近にアートがないのなら自分で描いてみるべ、という気持ちになってきた。 直後にデジカメを入手して写真をはじめたので、じっさいに絵筆をとってドローイングを始めたのはつい半年前だけれど、とても楽しくて病みつきである。

自分で描きはじめて驚いたのは、アーチスト(とくに画家)の好みが徐々に変化していったことだ。

以前は、なんといってもアメリカの抽象表現主義の画家たちが一番だった。マーク・ロスコ、バーネット・ニューマン、初期のフランク・ステラなどなど...。 それが具象とも抽象ともつかない、子どもたちの絵、アボリジニのアクリル絵画、キーファー、バスキア、大竹伸朗などに好奇心が移っていった。 とくに(画家としての評価は全然ないのかも知れないが)ぼくはMAYA・MAXXというアーチストに衝撃を受けた。 忘れもしない、吉本ばななの『ハネムーン』の挿し絵である。 名前が名前だけに、性別も国籍もわからなかったが、東京から無念の撤退をしてどん底(というか、危険な状態...)だったぼくは、 彼女のエモーションの奔流といって差しつかえない絵画に、文字どおり「救済」されたのだった。

そしてもう1人、かけがえのない画家がいる。
サイ・トゥオンブリである。

トゥオンブリは、ロスコやステラと肩を並べる巨匠といっていい画家だけれど、日本ではきちんとした回顧展が開催されたことがなく、 一般的な知名度はまだ低い。ぼくも東京にいたころは全然知らなくて、 こっちの図書館で借りて読んだアメリア・アナレスの啓蒙書で彼のことを知った。 こういうタイミングだから、当然実作をまだ1点も見たことがない。

トゥオンブリは、ぼくにとってガンジス川のような存在である。
アイデアに詰まると、巨匠ならどうするだろうかと考える。天国から降ってきたような色彩とタッチ、書きなぐりの言葉にどっぷりとつかり、沐浴する。 すると、描き込みすぎてどうしようもない作品も、新たないのちが芽吹いてくることがある。 一枚、一枚、描くたびに新しい発見をする、絵の面白さを巨匠には教わっているように思う。

おととい、アマゾンで注文した(おそらく最新の..)画集が届いた。

画集には、340点を越える図版と共に、リチャード・リーマンという方が執筆した大部の論文が掲載されている。 英文なので、ぼくにはまったく読むことが出来ない。そこに巨匠の秘密が詳細に解説されているかと思うとなんとも歯がゆい。

だからぼくは、自分の絵を描くしかないのである。「未熟な詩人は模倣し、熟達した詩人は盗む」との名言を残したのはT・S・エリオットだそうだが、 ぼくには模倣する力も盗む力もない。ただただ、探求するために描いている。
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by thatness | 2006-04-17 00:14 | わたし

比丘

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福岡、新天町
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by thatness | 2006-04-14 21:49 | 写真

chinese style

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長崎、興福寺
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by thatness | 2006-04-11 11:13 | 写真

the circle

コンパスを使って紙に円を描いて、これはなんだろうかと思う。

まず連想するのは太陽をまわる惑星の軌道だろうか...。完全な秩序。地球は一年を365日でまわる。 途方もない距離のはずなのに、4年間でおおむね1日の誤差しかないのだからすごい。 あと、原子核をまわる電子もパーフェクトな円軌道を描いているのではないか、たぶん。 プラトンは正三角形が自然界には存在しない観念であることから「イデア」を導きだしたが、円は自然界に存在する。

自然界に正確な円が存在するのは、それが運動であり、時間とも深く関わっているからだろう。正三角形は運動や時間とは関係があるように見えない。

しかし、紙にいくら正確な円を描いてみても、宇宙感覚みたいなものはちっとも湧いてこない。 禅書ではないけれど、筆をつかって歪みやこすれが筆跡に残ると、インスピレーションの感じられる円になる。なせだろう。

そういえば素粒子の軌跡の画像も、なかなか面白い。絶対的な円から飛び出した素粒子の軌跡は、混沌としてとても美しい。 しかしそれが美しいのは円運動と時間があるからかも知れない。禅画がおもしろいのも、それが円という「何か」の痕跡だからだろう。コンパスで紙に描かれたただの円は、それそのものに過ぎない。

図像の世界では、円が宇宙や無限を象徴しているは、よくいわれるところ。素粒子の運動、惑星の公転と、われわれの内と外に無数に存在する円。 われわれは円とともに、円のなかで生きている。しかし、その「外」に出ていくことは果たして可能だろうか、と思う。つまり、無限の外に。
パット・メセニーの代表作に「first circle」というアルバムがある。 直訳なら「第1の円」...。この文章を書いているうちに意味が気になって、「英辞郎」で検索してみる。 するとみごとにヒットして、その意味にびっくり。 「first circle」とは、ソルジェニーツィンの著作のタイトルで、邦題は『煉獄の中で』。

そうか。この宇宙は煉獄なのか。
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by thatness | 2006-04-10 21:21 | ある日

zavier

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長崎、日本二十六聖人記念聖堂
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by thatness | 2006-04-05 11:19 | 写真