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空き地、大好き。

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by thatness | 2006-06-26 02:15 | 写真

ナナ日記 地の巻

天の巻を書いて、1週間以上も経過してしまいました。
へたれエピソードなのに、こんなに時間が経過してしまうなんて。すいません。

で、地の巻。

ぼくはほぼ毎日、空き地で愛犬とオモチャの取り合いをして遊んでいる。 いい大人がなにをやってるんだろう...と、自分でも思うのだけど、愛犬にせがまれるとついつき合ってしまう...。

よくやるのがボロ布や骨のかたちをしたオモチャを使った綱引き。ぼくは両手で、愛犬は口で、両端をお互いで引っ張り合う。このときの愛犬の必死の形相が、じつにじつに面白い。 鼻のまわりに皺を寄せて、ふんっ...と鼻息も荒い。なにがなんでも放すもんかと迫力のある表情で噛みついている。 のだが、そのまま庭まで引きずっていくとあっさり噛むのを止める。鎖につながれるのがいやなのである...笑。 空き地に放すとなかなか戻らないので、その方法で一度だけ連れもどすのに成功したが、それ以降はもう駄目だ。 同じ轍は二度と踏まない。犬ながら天晴である。

その日、なにげに思いついて、オモチャを足で踏んづけてみた。
いままでやったことのない、パターン。

さてさて、どうするか。オモチャの端っこを軽く噛んで引っ張るが、まったく動かない。 今度は根元を奥歯でしっかりと噛み、後ろ足で踏んばりをきかせるが駄目である。ぼくは愛犬があきらめるところを見たかった。 いままでそういうの、一度もなかったから。しかし、飼い主の意に反して、愛犬はあきらめない。 最後にはおどろくべき行動をとった。なんとお座りをして、飼い主を見上げたのである。すごくないか?

犬が飼い主にお座りをする。あたりまえのことと思ってはいけません。 おやつをあげるとき、散歩につれていくときは、指示を出さなくとも自分でお座りをする。 学習しているからだが、この場合はまったく新しいパターンだ。 どうすればオモチャが取れるか、犬なりに考えてアクションを起こしたのは間違いない。 頭の中にある知識や感情が目に見えないように、考えることも目で見ることは出来ないが、愛犬がお座りをした瞬間、 ぼくは考えることをこの目で見たような気がしてとてもとても感動した。直感的なイメージでいうと、 純度の高い蜂蜜を舐めたような感じだろうか。愛犬の、無垢な目がそういう連想を誘ったのだろう。

論理学者、野矢茂樹さんの美しい本、『はじめて考えるときのように』によると、 考えることとは、ひとつの問いが心にひっかかっている状態、問いをさまざまな視点で吟味する行為のことをいうのだそうだ。 野矢さんによれば、計算問題を解くことは考えるとはいわない。というのは、あらかじめ決められた法則に記号を当てはめているだけだから。 法則があり、記号があれば答えはすでにわかっている。

ようするに、考えるとは、問いに気がつくことなのだろう。 それは案外むずかしいのではないか。受験でも採用試験でも、あらかじめ用意された問いに答えるのがそのプロセスであって、 問いを作りなさいという試験はきいたことがない。けれど、人生ではたくさんの美しい問いに気がつくことが要求されるように思う。 アートの世界ではとくにそうだろう。それは、いわゆるテーマを探すこととは似て非なるもの。 すばらしい作品には、かならず美しい問いがやどっている。

ナナ、きみは美しいっ。

しかし、きみは果たして、自分が考えたという事実を自覚しているか。 考えたということがわからなくて、それを考えたということが出来るだろうか。ううむ。
禅の公案「狗子仏性(くしぶっしょう)」では、犬にも仏の心はあるが、自覚できないのでないのと一緒だ、ということになっている。 そこが犬知恵の限界...? でもまてよ...。もういちどオモチャを踏んづけたらナナはどうだろう。やはりお座りをするのではなかろうか。 同じことが出来るというのは、自覚したということであり、考えたということにならないか。うううむ。
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by thatness | 2006-06-25 22:13 | ある日

階段

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Y町
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by thatness | 2006-06-24 11:41 | 写真

窓と夏草

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S町
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by thatness | 2006-06-20 22:18 | 写真

梅雨の中休み

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S町
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by thatness | 2006-06-17 15:25 | 写真

ナナ日記 天の巻

ダラチンスキーさんと元ちとせのライブレポが、なかなか進まない。
同人誌やコンクールの締め切り、ドローイングの制作が立て込み文章をまとめる時間がない。というのは嘘ではないが、 ワールドカップの開幕で気持ちがそっちに引きずられているというのが大きいかな。

というわけで、最近の愛犬のへたれエピソードをひとつ。

日本がオーストラリアに歴史的な敗戦(ドーハの悲劇、 サン・ドニの惨劇に匹敵するんじゃないのかなあ)をくらった翌日だったと思う。 なかなか寝付けなくて、朝は11時ごろに起床。空き地に出てみると、母が草むしりをするそばで、 愛犬がなにやら白いものを口にくわえていた。まただ。

こいつはほんとに...どこからこういうのを見つけてきたんだ、と驚くようなものをひっぱりだしてきて(掘り出して)オモチャにする。 トカゲや甲虫の幼虫は日常茶飯事、ヘビをひっ捕まえて遊んでたこともあったし、巨大なサルノコシカケを見つけてきたこともあった。 せまい空き地のどこに生えてたのやら見当もつかない。柴犬おそるべし、である。

で、その白いもの。あきらかに発泡スチロールに見えた。胃袋にはいるとやばいので止めさせようと近づいたが、 ナナはとうぜん口にくわえたまま逃げる。しかし、白いものはぼろぼろに崩れて地面に落ちる。 拾い上げると、なんとコンビニのおにぎりであった。

いやな感じがした。

以前にもやはり、フライドチキンだったか、おでんだったか、 とにかくコンビニで売っているような食べ物をナナが頬張っていたことがあった。 誰かが故意に、空き地に放り込んだとしかかんがえられない。 空き地はわが家の真裏にあって、袋小路の路地を奥まで進まないと近づくことが出来ない。よその飼い犬に食べさせるために、 奥まで入り込んで食べ物を放り投げる人がいるだろうか。食べ物に農薬でも仕込んであるんじゃないかと心配になる。

母と相談した。

こういうご時世だし、警戒するに越したことはなかあ...。かわいそうだけど、見つけ次第取り上げて、「駄目」をしつけるしかない。 飼い主の心配をよそに、ナナは地面に寝そべり、天を仰いで鼻をひくひくさせている。 いい匂いでもするのか? をい? と、その様子を見て、食べ物を運んできたものの正体がひらめいた。

カラスだ...。 
たぶん間違いない。カラスが食べ物を、偶然空き地に落としたのだ。母も、草むしりをしながら、ものが落ちるような音を聞いたという。 人間が放り込むよりも、可能性としてはこっちのほうがだんぜん高いよな。飼い主としてはひと安心。

ナナはしばしば、空をじっと見上げていることがある。
ふうむ。さすが詩人?の愛犬。こいつは空の青さが目に滲みていると感心していたのだけど、違うようだ。 天から美味いものが降ってくるのを期待していたのかも知れない。事実、その通りだったのだから。いいよな犬は。
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by thatness | 2006-06-16 10:53 | ある日

scenery seen

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福岡、都市高速より
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by thatness | 2006-06-09 21:59 | 写真

名称未設定断片

ほしいものは自分で作ってみる

そのための時間も 作ってみる
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by thatness | 2006-06-08 21:34 | 名称未設定断片

二十六聖人記念聖堂、長崎

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by thatness | 2006-06-07 19:56 | 美術_art,photo

声の体験

人間の声ってすごいぜ。
土曜日と日曜日と、2日つづけて人の声の美しさに触れた。触れたというより、浴びた...というべきか。 瀧のそばで水しぶきを浴びたときのような、クールな陶酔。

まずは土曜日、福岡で元ちとせのコンサート。 念願だった彼女の歌声を、(もちろんPAを通してではあったけれど)ようやく目の当たりにすることができた。 新しいアルバム『ハナダイロ』からの曲を中心に20曲くらいは歌っただろうか。 そのうち7〜8曲は...泣きながら聞いた。音楽を堪能しただけでなく、自分自信への気づきというか (ちとせの曲のタイトルを借りるならば)「黎明」のようなものも得たかも知れない。後日、ライブレポを書くつもりです。

で、日曜日。

地元で開かれた「6月のひまわり」のフリーコンサートに足を運ぶ。
「6月のひまわり」というのは、2年前に地元で起きてしまったある事件をきっかけに生まれた曲である。 地元ではよく知られた曲なのだけど、ぼく自身はさまざまな理由から曲に抵抗感を感じるところがあり耳にしてこなかった。 しかし先月、関係者の方からCDを聴かせていただく機会があり、音楽としての純度の高さ、美しさにびっくりしてしまった。

CDでは、聖和女子学院という地元のミッションスクールのコーラス部が歌っている。 聴いて即座に、モーツアルトの「アヴェ・ヴェルム・コルプス」を連想した。基本的に注文仕事しかしなかったモーツアルトが、 家族を援助してくれた合唱指揮者(とアマチュアのコーラス)のために、損得抜きで書き上げたモテットである。 クラシックの名曲は、大半がプロの演奏家にしかその神髄を見せない音楽だけれど、 アマチュアにも門戸が開かれている「傑作」を書いたのはモーツアルトだけかも知れない。 「6月のひまわり」も、そのように「歌いつがれる」名曲であってほしいと思う。

さて、フリーコンサートでは、その聖和女子学院のコーラス部の合唱を生で聴くことが出来た。 やはりCDとは違う。ふたつのスピーカーから出てくる音と、目の前で数十人の人間の身体からあふれてくる声とでは、全然違うのである。

女の子たちは両脚をすこし開いてしっかりと立ち、おなかからたっぷりと空気を吸い込み、声を出している。型だ、と思った。 齋藤孝先生ではないが、イチローや王貞治のバッティングフォーム、座禅の坐り方とやっていることは同じ。 顔も背丈もちがう女の子たちがひとつの型の下にまとまり、シンプルなひとつの声になる。 放たれるハーモニーの透明感あふれる美しさ...。

ハーモニーは、言葉やメロディとはあきらかにちがう、と思った。 それは音の線ではなく「響き」のグラデーションといったらいいだろうか。 空気のふるえが目に見えるようで、身体全体の知覚に訴える力がある。 よほど高価なオーディオでないかぎり、これは生で聴かないと体験できるものではない。

「6月のひまわり」は、とてもよかった。
作詞をしたのは中学1年生の男の子、作曲をしたのは高校3年生の女の子(当時)というのがちょっと信じられない、ほんとうにいい曲である。 目の前で、女の子たちの息を感じながら聴くと、失われた命そのものが、言葉と音符のなかで生き、呼吸をしているような感じを受けたし、 深いハーモニーはその彼方の世界までも映し出してくれたように思う。

そして2曲目の「アヴェ・マリア」も忘れられない。いったい誰の曲だったのだろう。 いくつもの声部がポリフォニックに絡みあう様は圧巻で、教会のステンドグラスの光が(時間の流れを跳び越えて)交錯し、 跳ね回っているいるようなイメージを持った。

コーラスは、音楽のもっとも古い型のひとつ(たとえばグレゴリオ聖歌)だ。 ジャズやロック、クラシックが消滅しても、コーラスが消えてなくなることはない。 ブルガリアン・ヴォイス、バリ島のケチャ、現代音楽のメレディス・モンクと彼女のヴォーカル・アンサンブル。 人間が声をあわせて歌い、ハーモニーを奏でるのは、特別のことだと思っている。

それにしても、どうしてこの2日間に集中して、こんな体験をしたのだろうか。

そういえば、フリーコンサートでアイルランドの民族音楽も披露されたが、 「オクラホマ・ミキサー」が出てきたときにははっとした。 学生時代に8ミリ映画で使ったことがある曲で、 そのときの音源を(グレゴリオ・パニアグア指揮、アトリウム・ムジケー)先日ネットで購入したばかりだったのだ。

意味のある偶然がつづくと、なにかしら、自分のなかから大切なメッセージが出ているような気がしてならない。 しっかりと耳を澄まそうと思う。

website.6月のひまわり
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by thatness | 2006-06-06 16:40 | 音楽_rock,others