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FM雑文

日曜日はひさびさに青空がひろがった。
台風の影響からか強い南風が吹き、アイスクリームの固まりのような雲がびゅんびゅん流れていく。 まるで、地球の自転を肌で感じているような開放感である。

絵の具と紙屑でぐちゃぐちゃになった部屋を掃除しながら、FMでユーミンと山下達郎のDJを聴いた。 日曜日の午後はFMをのんびり聴くと和むな。どちらのプログラムも面白く、電気掃除機がかけられなくなってしまう。

ちょっとご紹介すると...。

ユーミンのプログラムは「飲料水の特集」だった。 世界各地から取り寄せたミネラルウオーターをユーミンが試飲して、その印象をトークで伝えるというもの。 ありがちな企画なのかも知れないけど、ユーミンは言葉のインスピレーションが抜群にすばらしいひとなので、じつにじつに面白かった。 ただの飲料水の話なのに。

つねづね思うのだけど、ユーミンは相手に何かを伝えようとするとき、目の前にあるものの客観的な描写より、 まず心に生じたインスピレーションを正直に言葉にしようとする。これは簡単なようでとてもむずかしい。 人間はどうしても先入観にたよってしまう生き物だから。

昨年だったか、NHKの新日曜美術館(マチスの特集だった)に出演したとき、「マチスの何がいちばん好きですか」との質問に、 彼女は「...まず名前が好きですね」と答えていた。すごい。
もしおなじ質問をされても、大半のひとはマチスの色彩だのフォルムだのから言葉を拾おうとするにちがいない。しかし「名前」である。 しかもコメントされて初めて、われわれはマチスの色彩とおなじくらい、その名前の響きを愛しているのに気づかされる。 自分のインスピレーションに正直な言葉が、逆説的に物事の本質にするどく迫る...すぐれた表現とは、そういうものなのである。

山下達郎のプログラムは、いつもの「たなつか(棚から一掴み)」特集ではなくて、70年代の日本のロック特集。 先ほどのユーミンと井上陽水、かぐや姫が全盛の頃、こんな素晴らしいアーチストがいましたよ...という。

オンエアされたのは、久保田真琴と夕焼け楽団の「初夏の香り」。 これは、ハワイアン風にアレンジされた、すばらし〜いバラード。 カセットテープで持ってるんだけど、なかなか聴く機会がなく、何年ぶりかで耳にして感動した。J一郎くん、ダビングありがとうございました。
それと古井戸の「らびん・すぷんふる」。古井戸は、仲井戸麗市がRCサクセションに参加するまえに結成していた伝説的なフォークグループ。 はじめて聴いたけど、最高である。いいに違いないと思ってたけど、やっぱりいいな。ラヴィン・スプーンフルに全然負けてない。

そして、四人囃子の「空飛ぶ円盤に弟が乗ったよ」。

四人囃子というと、マニアにはおなじみの和製ピンクフロイドというか、まあそういうレッテルを貼られていたプログレ系のバンドだった。 先入観もあっていままで(だって、プログレだぜ...)まったく触手がのびなかったのだが、すごいすごいすごいいいのである。

サウンドはEL&Pに近いかな。演奏能力は非常に高い。 ...いや、高いとは聞いてたけど(メンバーはいまや日本を代表するスタジオミュージシャン)、こんなにすごいとは。 デビュー当時、彼らはハタチそこそこだったはず。 が、なによりいいのは歌詞だ。シュールでノスタルジックで、まさに70年代!  言葉は視覚的で、物語性も深く、世界がすっとアタマに入ってくる。サウンドに日本語が見事に乗っかっているのだ。 こんなプログレ、世界中どこをさがしても絶対にないだろう。嗚呼、アマゾン(とヤフオク)巡礼は終わりそうにない。

というわけで、気持ちのいい午後はあっというまに消えていった。
トリュフォーの映画ではないが、日曜日が待ち遠しいぜ。
ひとりでラジオを聴くために。

もちろん空は晴れてほしい。



蛇足
++
いわゆる「キャプテン翼世代」。
上には上があるようです。
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# by thatness | 2006-07-12 11:57 | 音楽_rock,others

もしナナが詩人だったら。

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作品
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# by thatness | 2006-07-10 21:28 | 名称未設定断片

出発

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# by thatness | 2006-07-08 22:10 | 写真

目にとまる。

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S歯科医院
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# by thatness | 2006-07-07 17:47 | 写真

スティーヴ・ダラチンスキー頌

5月初旬。
スティーヴ・ダラチンスキーというアメリカの詩人の朗読イベント(於・ギャラリーえびす、佐世保)に足を運んだ。

スティーヴ・ダラチンスキーという詩人について、ぼくはなにひとつ知らなかった。 しばしば寝しなに開く『アメリカ現代詩人101人集』(思潮社)にも、彼の作品はピックアップされていない。 英語圏約1千人の詩人のデータがある「PoemHunter.com」を検索してもヒットしない。(ただし、英語でグーグルに入力すると、一万件以上のヒットがある)
けれど、まったく予備知識なしに、未知の詩人の朗読に触れるのも面白いと思った。 というより、日本語外国語ふくめて、詩人の朗読会というものに足を運んだことがない。 ちいさな、ほとんど内輪だけのイベントだったので少々おっくうだったけれど、朗読大国アメリカの詩人の声を生で聴ける機会など、 わが町では奇跡に近い。迷っている場合ではなかった。

ダラチンスキーさんは、今年60歳。
ニューヨーク、ブルックリン生まれで、現在はマンハッタン在住。 ケルアック、ウイリアム・ブレイク、ギンズバーグなどに影響を受ける...、ということはビートニク世代の詩人なのだろうか。 ジャズを深く愛し、朗読イベントでは、フリージャズのアーチストとたびたび競演されているようだ。 ジャズの知識はあまりないのだけれど、共演者のなかには名前を知っているミュージシャンがいた。

詩人の帰国後、知人から翻訳をもらい読ませてもらったが、作品はブレイクの影響だろうか、とても神秘的な印象を受ける。 といっても、オカルト的な神秘ではない。日常の生活で渉猟された映像や時間の断片が、彼のあたまの中でシャッフルされて (ちょうど村上春樹の『世界の終わりとワンダーランド』のように)、神秘を帯びた暗号となるのだ。

ダラチンスキーさんは、いろんな場所で詩作が出来るのだという。 地下鉄の中、レストランのテーブルなど、街で拾った映像や声を書き留め、それをノートの中でシャッフルしていく。ちらとノートを見せていただいたが、紙の中にびっしりと書き込まれた筆記体の文字、さまざまなコラージュには感動した。 ニューヨークの喧噪が、生きたまま聞こえてくるのである...。
これは引力だ、と思った。街の映像や時間が、宇宙の塵が天体に引き寄せられるように、 自然とダラチンスキーさんに吸い寄せられ、脳の中で言葉に還元されるのだ。 その触媒(あるいはホルモン)としてブレイクがあり、フリージャズがあり、占星術やウッドストックもあるにちがいない。

とてもじゃないけど、ぼくには彼のような引力はない。

長い時間をかけて自分の中に溜まり、発酵したイメージしか言葉にすることができなので、 わずか2行の詩を拵えるのにも半年かかったりする。路上での詩作なんかとうてい無理。 マックのデスクトップでしか、詩を書くことが出来ない(というか、パソコンを動かせるようになって、書けるようになった)。 ぼくも彼のような引力と、風の通しのいいイメージのほら穴(としての脳)が欲しいと思うが、それが才能の多寡なんだろうな。 アウトじゃ...。

ギャラリーでの朗読は、すばらしかった。

最初はブルックナーの交響曲のように、静かに、朝靄が立ちのぼるような感じで詩編が読まれはじめる。 しばしば長い休符、やがて朗読は熱を帯びてくる。 「blue」「pray for me」「semisigure」など、作品の核となる言葉がなんども繰りかえされ、聴くものを不思議な高揚感に駆り立てる。 朗読のテンポがフルスロットルで加速されると、会場が一気に宇宙空間まで飛ばされてしまうのではないかと思い、身震いした。 大袈裟な表現なのは百も承知である。しかし、あの場所あの時間のことを思い出すと、冷静な描写などくそくらえという気持ちになってしまう。

いったい、ダラチンスキーさんは何百行の言葉を朗読していたのだろう。 テーブルの上には、びっしりと文字で埋められた詩編が何枚も置いてあるが、朗読がピークに達するとほとんど目を落としてないように見えた。 ギャラリーの雰囲気を呼吸しながら、用意した作品を組み換えつつ新たな詩を生みだしていく。

正直、英語はほとんど理解できない。 脳は必死になって意味を汲み取ろうとするのに、理解できないので無尽蔵の神秘が心の中に溜まっていく。 しかし、言葉がわかりそうでわからないことも、詩の楽しみのひとつかも知れない。 なにより、意味内容を超えて、詩人の声と息が発散するエネルギーのすごさ。これはライヴを体感したものにしかわからない。

ライヴが終了し、詩人に訊いてみると、思ったとおり朗読にはかなり即興がふくまれていた。 いや、即興というよりも解体といったほうがいいかも知れない。あらかじめ用意した作品が、 会場の雰囲気やその日の調子によってどんどん変化し、他の作品同士でイメージの浸潤もはじまる。 後日、会食の席でダラチンスキーさんは、「ビッグバン」なんだとおっしゃった。作品と作品をぶつけあって、その場であたらしい銀河を作り上げるのだと...。

詩人が生きるなかでイメージを渉猟し、シャッフルされた言葉が作品となり、活字になる。 それをふたたび、詩人は自分の声を通して現実の空間のなかに「帰す」。 まるで植物が花を咲かせ、種子をまき散らすように...。朗読の聴き手は種子をついばむ小鳥に喩えられる。 ぼくらは食べたものを栄養にして、声と書く力を得る。

繰りかえすが、ぼくはマックのデスクトップ上で詩作や作文をしている。 推敲が終わったものはテキストデータとして保存し、あとは自分のサイトにアップするか、紙にプリントアウトすれば、おしまいであった。 作品を自分や他人の声にゆだねてることは想定していないので、ひとつの詩にはひとつの「世界」があるだけである...。 けれどダラチンスキーさんは、完成した自作を、あたかもジャズでいうところの「モード」のようにその場に投じることが出来る。 他の作品ともぶつかり合い、浸潤して、ひとつの作品から複数の「世界」が生まれる。 ぼくにとって、それはまったく異次元の体験といってもよく、あたまがくらくらしてしまった。

ぼくはつねづね、言葉(作品)がその作者の独占物になることに疑問を感じてきた。 音階がなければ音楽は書けないように、言葉と文法がなければ詩は生成しない。 言葉は詩人にとっても、あくまで借り物に過ぎない。ダラチンスキーさんのアプローチのように自作をどんどん解体したり、 あるいは他人の声に自分の作品をゆだねることにより、「借りた」言葉を「世界」に帰すということができるのではないかと思う。 そのプロセスから生成されるのは、作者も気がつかなかった、作品のもうひとつの姿ではないのか。 ひとつの詩から、声の数だけ複数の「世界」が生まれれば、すばらしいことだと思う。

数日後。

市内のライブハウス(於・スペース遊)で行なわれた、ダラチンスキーさんとジャズミュージシャンとのコラボレーションにも足を運んだ。 リハーサルは一切なし。ぶっつけ本番の、インプロビゼーションである。 といってもセシル・テイラーのようなアヴァンギャルドなサウンドを想像してはいけない。 ファンキーでノリのいい、エンタテイメントとしてもじゅうぶんに愉しめるライヴで、 緊張感を強いられたギャラリーとは全然ちがっていて、これまた驚かされた。

むしろ、こういうジャズミュージシャンとのコラボレーションが、本来の詩人の姿かも知れないな。 2時間ちかいライブの最後の言葉は、「jazz makes me」。 そういえば、「i have a dream」ではじまるすばらしい声のパフォーマンスもあったっけ。父のラジカセで聴いた、あのすばらしいグルーヴ。
アメリカには成熟した声の文化があると、痛感した。ビート・ジェネレーションの文化は、若い世代には受け継がれているのだろうか。

ぼくも「ライヴ」になりたいな...などと無謀なことを夢見る。
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# by thatness | 2006-07-06 00:17 | ある日

犬だっていろいろあるんだよ。

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# by thatness | 2006-07-02 13:02 | 写真

空き地、大好き。

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# by thatness | 2006-06-26 02:15 | 写真

ナナ日記 地の巻

天の巻を書いて、1週間以上も経過してしまいました。
へたれエピソードなのに、こんなに時間が経過してしまうなんて。すいません。

で、地の巻。

ぼくはほぼ毎日、空き地で愛犬とオモチャの取り合いをして遊んでいる。 いい大人がなにをやってるんだろう...と、自分でも思うのだけど、愛犬にせがまれるとついつき合ってしまう...。

よくやるのがボロ布や骨のかたちをしたオモチャを使った綱引き。ぼくは両手で、愛犬は口で、両端をお互いで引っ張り合う。このときの愛犬の必死の形相が、じつにじつに面白い。 鼻のまわりに皺を寄せて、ふんっ...と鼻息も荒い。なにがなんでも放すもんかと迫力のある表情で噛みついている。 のだが、そのまま庭まで引きずっていくとあっさり噛むのを止める。鎖につながれるのがいやなのである...笑。 空き地に放すとなかなか戻らないので、その方法で一度だけ連れもどすのに成功したが、それ以降はもう駄目だ。 同じ轍は二度と踏まない。犬ながら天晴である。

その日、なにげに思いついて、オモチャを足で踏んづけてみた。
いままでやったことのない、パターン。

さてさて、どうするか。オモチャの端っこを軽く噛んで引っ張るが、まったく動かない。 今度は根元を奥歯でしっかりと噛み、後ろ足で踏んばりをきかせるが駄目である。ぼくは愛犬があきらめるところを見たかった。 いままでそういうの、一度もなかったから。しかし、飼い主の意に反して、愛犬はあきらめない。 最後にはおどろくべき行動をとった。なんとお座りをして、飼い主を見上げたのである。すごくないか?

犬が飼い主にお座りをする。あたりまえのことと思ってはいけません。 おやつをあげるとき、散歩につれていくときは、指示を出さなくとも自分でお座りをする。 学習しているからだが、この場合はまったく新しいパターンだ。 どうすればオモチャが取れるか、犬なりに考えてアクションを起こしたのは間違いない。 頭の中にある知識や感情が目に見えないように、考えることも目で見ることは出来ないが、愛犬がお座りをした瞬間、 ぼくは考えることをこの目で見たような気がしてとてもとても感動した。直感的なイメージでいうと、 純度の高い蜂蜜を舐めたような感じだろうか。愛犬の、無垢な目がそういう連想を誘ったのだろう。

論理学者、野矢茂樹さんの美しい本、『はじめて考えるときのように』によると、 考えることとは、ひとつの問いが心にひっかかっている状態、問いをさまざまな視点で吟味する行為のことをいうのだそうだ。 野矢さんによれば、計算問題を解くことは考えるとはいわない。というのは、あらかじめ決められた法則に記号を当てはめているだけだから。 法則があり、記号があれば答えはすでにわかっている。

ようするに、考えるとは、問いに気がつくことなのだろう。 それは案外むずかしいのではないか。受験でも採用試験でも、あらかじめ用意された問いに答えるのがそのプロセスであって、 問いを作りなさいという試験はきいたことがない。けれど、人生ではたくさんの美しい問いに気がつくことが要求されるように思う。 アートの世界ではとくにそうだろう。それは、いわゆるテーマを探すこととは似て非なるもの。 すばらしい作品には、かならず美しい問いがやどっている。

ナナ、きみは美しいっ。

しかし、きみは果たして、自分が考えたという事実を自覚しているか。 考えたということがわからなくて、それを考えたということが出来るだろうか。ううむ。
禅の公案「狗子仏性(くしぶっしょう)」では、犬にも仏の心はあるが、自覚できないのでないのと一緒だ、ということになっている。 そこが犬知恵の限界...? でもまてよ...。もういちどオモチャを踏んづけたらナナはどうだろう。やはりお座りをするのではなかろうか。 同じことが出来るというのは、自覚したということであり、考えたということにならないか。うううむ。
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# by thatness | 2006-06-25 22:13 | ある日

階段

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Y町
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# by thatness | 2006-06-24 11:41 | 写真

窓と夏草

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S町
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# by thatness | 2006-06-20 22:18 | 写真