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紅白歌合戦を見ていて、面白い体験をした。
隣の部屋で、母がラジオで紅白を聴きながら正月飾りの準備をしていたのだけれど、 漏れ聞こえてくるラジオの音声とテレビの音声とがあきらかにズレているのである。 ラジオの音声のほうが、テレビより0.5秒くらい早かっただろうか。中継局の関係か、情報量の違いなのか、 わからないけど完全なリアルタイムなんてありえないんだということを思い知らされた。 1984年に、ナム・ジュン・パイクが「グッド・モーニング・ミスター・オーウエル」というテレビ番組を製作したことがある。 ジョージ・オーウエルの近未来小説『1984年』、記念すべきその年がついにやってきたということで、 第一線で活躍していた音楽家やアーチストにリアルタイムで演奏やパフォーマンスをしてもらい、 衛星中継で世界中にオンエアしようという大掛かりなイヴェントだった。 たしか前日の大晦日から元旦にかけて12時間くらいぶっ通しで欧米を中心にオンエアされたはずだが、1時間程度のダイジェスト版をNHKも流してくれた。 これで面白かったのは、パイクは衛星中継のタイムラグを利用したエフェクトを映像に加えたことである。 たとえば、ニューヨークで踊っているマース・カニングハムの映像をヨーロッパで受信し、 もう一度ニューヨークに戻して合成する。元の映像とヨーロッパで受信された映像が重ねられると、 マース・カニングハム本人とまったくおなじ動きを、地球を半周して戻ってきたドッペンゲルガーがタイムラグのぶんだけ正確に追いかけるのだ。 有機的な人間のパフォーマンスと、衛星中継システムによるメカニックなドッペンゲルガーとの共演がなんともシュールであったのを記憶する。 紅白を見ていたときの音声のタイムラグが面白く、ラジオをテレビの前に置いてみた。すると音声にエコーがかかったような効果が生まれる。 まるでホールにいるような臨場感だ。同時に、ぼくは理解する。自分がいま目の前で見ている紅白は厳密な意味でのリアルタイムではなく、 時間差があること。ばたばたと進行する歌も司会も、その実体はただの電波であり、 その場にいないかぎりはイリュージョンを見ている過ぎないこと。なんという孤独。 イリュージョンがぼくの中でただの電波に還元されると、わが家のお茶の間が沈黙に包まれていくのを感じる。 ここは東京ではない。もの言わぬ地球という実存の中の一点に過ぎぬ、という思いなしが浮かび上がってくる。 紅白を見ていて、なんとなくパイクのイヴェントを思い出したわけなのだけれど、いまから思うと、電波のタイムラグというアイデアは面白かったが、 単なる効果(絵画的にいえば装飾)としてしか生かされてないのが残念に思う。 タイムラグはフォンタナの絵画に見られる切り裂き痕の役割を果たしてはいるけれど、 絵画そのものの範疇にはとどまっている。 あの頃のパイクは...というかビデオアーチストたちのほとんどが、テレビを媒体に「絵を描いていた」といわざる負えないだろう。 モネがジヴェルニーの自宅庭の風景をもくもくと描いたように、パイクは衛星中継システムそのものを「風景」として一枚の絵を描いたのである。 昨年の紅白歌合戦を見ていて遭遇したタイムラグの体験は、日常生活に寄生した虚構をかいま見せてくれる刺激的なものであった。 それは「作品」ではないが、ぼくのなかではアートと呼んで差しつかえない本質的な体験である。 追記 ++ おととい3日の夜。 2階にいたぼくに、父が「おおい、山崎まさ...なんとかがテレビに出とるぞ〜」と声をかけてくれた。 年末から「紅白、山崎、紅白、山崎」とうわごと?のようにつぶやいていたので、両親も名前を覚えてしまったのである。 あわてて下りていくと、テレビに映っていたのは...猿岩石の有吉〜。脱力...。新春恒例のものまね合戦だったようだが、何を歌ったんだろうな。聴いてみたかった。
by thatness
| 2006-01-05 02:33
| ある日
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