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わが家の東隣に、30坪くらいの空き地がある。
むかし地元の地方銀行の社宅が建っていたのだけど、いろいろと事情があって取り壊された。 雑草が生い茂りしばらく荒れ放題だったが、母が見るに見かねて開墾(笑)、自分の花畑にしている。 もちろん先方には了解済みで。 わが家の愛犬ナナは、この空き地で遊ぶのが大好きである。 というか休日、ここで愛犬を遊ばせるのが、ぼくの一番の楽しみになってしまった。 朝日を浴びながら、 憑き物が落ちたように空き地を走り回る愛犬。文字通り、生きる喜びを発散させている。 その姿を目で追いつつ、ひんやりした空気の中で熱いモカ系のコーヒーを飲むともう、最高なのである。 唐突だけど、かつてお釈迦様は、人間が生きているかぎり逃れようの無い苦しみとして、4つのことをあげられた。 老いること、病気になること、死ぬこと、そして生きることそのもの。 なんだ、それなら人間も犬も同じではないか。 生きものであればいつかは滅びるし、何かを滅ぼし食っていかなければ生きていけない。 休日の解放感からか、それがニヒリズムではなくて、なにか豊かな発見として感じられる。 ひとを愛すること、おいしいものを食べること、幸せになること。 生きていれば誰でも願うことだけれど、 そのエネルギーが嫉妬や(愛を失うことへの)恐れ、 飢えを必然的に生みだしていく。 仏教の世界ではそのことを業識といって、 人間が避けることの出来ない意識習慣なのだそうだ。 ようするにエゴである。 考えてみてほしい。誰かと誰かが愛しあえば、片思いの誰かは苦しむ。 その2人が結婚すれば、親たちは(小津安二郎の映画じゃないけれど)それなりにさびしい思いをする。 人間の愛の本質は、自己本位のエゴではないのか。 けれどエゴがなければ恋愛もないし、子孫も生まれてこないことになる。 こればかりは、どうしようもないよなあ、と思う。 などと、最近読んでいる仏教や禅の解説書を反芻しながら、 無邪気に飛び跳ねる愛犬の姿を目を細めながら見ていると、 生きる喜びって、エゴとは無縁なここにだってあるじゃないか、という気がしてきた。 うまいコーヒーと愛犬。それだけじゃない。 朝日、空き地に無造作に生える野草やむき出しになった土くれ、枯れ草。 ビニール越しに伝わってくる愛犬の糞の温もり。 ただ感じるだけで気持ちがよく、愛おしくて仕方がない。 つまりは、実存そのものが素晴らしい。ようするに、自分もこの空き地の一部に過ぎないのだ。 言葉にできない、爽やかな自然との一体感。 ぼんやりしているうちにコーヒーは無くなったし、愛犬ももうすぐ鎖につながなければならない。 なにも生みださないし、永遠に続くこともない、ほんの15分足らずの至福。読書や音楽、アートなど、 いわば現実世界ではないイリュージョンが大好きなはずのぼくが、 ただの空き地にはまってしまったのはどういうわけか。 とりあえずはまだ、空き地の実存と「遊んだ」としかいいようがない。
by thatness
| 2004-11-25 14:57
| ある日
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