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5月初旬。
スティーヴ・ダラチンスキーというアメリカの詩人の朗読イベント(於・ギャラリーえびす、佐世保)に足を運んだ。 スティーヴ・ダラチンスキーという詩人について、ぼくはなにひとつ知らなかった。 しばしば寝しなに開く『アメリカ現代詩人101人集』(思潮社)にも、彼の作品はピックアップされていない。 英語圏約1千人の詩人のデータがある「PoemHunter.com」を検索してもヒットしない。(ただし、英語でグーグルに入力すると、一万件以上のヒットがある) けれど、まったく予備知識なしに、未知の詩人の朗読に触れるのも面白いと思った。 というより、日本語外国語ふくめて、詩人の朗読会というものに足を運んだことがない。 ちいさな、ほとんど内輪だけのイベントだったので少々おっくうだったけれど、朗読大国アメリカの詩人の声を生で聴ける機会など、 わが町では奇跡に近い。迷っている場合ではなかった。 ダラチンスキーさんは、今年60歳。 ニューヨーク、ブルックリン生まれで、現在はマンハッタン在住。 ケルアック、ウイリアム・ブレイク、ギンズバーグなどに影響を受ける...、ということはビートニク世代の詩人なのだろうか。 ジャズを深く愛し、朗読イベントでは、フリージャズのアーチストとたびたび競演されているようだ。 ジャズの知識はあまりないのだけれど、共演者のなかには名前を知っているミュージシャンがいた。 詩人の帰国後、知人から翻訳をもらい読ませてもらったが、作品はブレイクの影響だろうか、とても神秘的な印象を受ける。 といっても、オカルト的な神秘ではない。日常の生活で渉猟された映像や時間の断片が、彼のあたまの中でシャッフルされて (ちょうど村上春樹の『世界の終わりとワンダーランド』のように)、神秘を帯びた暗号となるのだ。 ダラチンスキーさんは、いろんな場所で詩作が出来るのだという。 地下鉄の中、レストランのテーブルなど、街で拾った映像や声を書き留め、それをノートの中でシャッフルしていく。ちらとノートを見せていただいたが、紙の中にびっしりと書き込まれた筆記体の文字、さまざまなコラージュには感動した。 ニューヨークの喧噪が、生きたまま聞こえてくるのである...。 これは引力だ、と思った。街の映像や時間が、宇宙の塵が天体に引き寄せられるように、 自然とダラチンスキーさんに吸い寄せられ、脳の中で言葉に還元されるのだ。 その触媒(あるいはホルモン)としてブレイクがあり、フリージャズがあり、占星術やウッドストックもあるにちがいない。 とてもじゃないけど、ぼくには彼のような引力はない。 長い時間をかけて自分の中に溜まり、発酵したイメージしか言葉にすることができなので、 わずか2行の詩を拵えるのにも半年かかったりする。路上での詩作なんかとうてい無理。 マックのデスクトップでしか、詩を書くことが出来ない(というか、パソコンを動かせるようになって、書けるようになった)。 ぼくも彼のような引力と、風の通しのいいイメージのほら穴(としての脳)が欲しいと思うが、それが才能の多寡なんだろうな。 アウトじゃ...。 ギャラリーでの朗読は、すばらしかった。 最初はブルックナーの交響曲のように、静かに、朝靄が立ちのぼるような感じで詩編が読まれはじめる。 しばしば長い休符、やがて朗読は熱を帯びてくる。 「blue」「pray for me」「semisigure」など、作品の核となる言葉がなんども繰りかえされ、聴くものを不思議な高揚感に駆り立てる。 朗読のテンポがフルスロットルで加速されると、会場が一気に宇宙空間まで飛ばされてしまうのではないかと思い、身震いした。 大袈裟な表現なのは百も承知である。しかし、あの場所あの時間のことを思い出すと、冷静な描写などくそくらえという気持ちになってしまう。 いったい、ダラチンスキーさんは何百行の言葉を朗読していたのだろう。 テーブルの上には、びっしりと文字で埋められた詩編が何枚も置いてあるが、朗読がピークに達するとほとんど目を落としてないように見えた。 ギャラリーの雰囲気を呼吸しながら、用意した作品を組み換えつつ新たな詩を生みだしていく。 正直、英語はほとんど理解できない。 脳は必死になって意味を汲み取ろうとするのに、理解できないので無尽蔵の神秘が心の中に溜まっていく。 しかし、言葉がわかりそうでわからないことも、詩の楽しみのひとつかも知れない。 なにより、意味内容を超えて、詩人の声と息が発散するエネルギーのすごさ。これはライヴを体感したものにしかわからない。 ライヴが終了し、詩人に訊いてみると、思ったとおり朗読にはかなり即興がふくまれていた。 いや、即興というよりも解体といったほうがいいかも知れない。あらかじめ用意した作品が、 会場の雰囲気やその日の調子によってどんどん変化し、他の作品同士でイメージの浸潤もはじまる。 後日、会食の席でダラチンスキーさんは、「ビッグバン」なんだとおっしゃった。作品と作品をぶつけあって、その場であたらしい銀河を作り上げるのだと...。 詩人が生きるなかでイメージを渉猟し、シャッフルされた言葉が作品となり、活字になる。 それをふたたび、詩人は自分の声を通して現実の空間のなかに「帰す」。 まるで植物が花を咲かせ、種子をまき散らすように...。朗読の聴き手は種子をついばむ小鳥に喩えられる。 ぼくらは食べたものを栄養にして、声と書く力を得る。 繰りかえすが、ぼくはマックのデスクトップ上で詩作や作文をしている。 推敲が終わったものはテキストデータとして保存し、あとは自分のサイトにアップするか、紙にプリントアウトすれば、おしまいであった。 作品を自分や他人の声にゆだねてることは想定していないので、ひとつの詩にはひとつの「世界」があるだけである...。 けれどダラチンスキーさんは、完成した自作を、あたかもジャズでいうところの「モード」のようにその場に投じることが出来る。 他の作品ともぶつかり合い、浸潤して、ひとつの作品から複数の「世界」が生まれる。 ぼくにとって、それはまったく異次元の体験といってもよく、あたまがくらくらしてしまった。 ぼくはつねづね、言葉(作品)がその作者の独占物になることに疑問を感じてきた。 音階がなければ音楽は書けないように、言葉と文法がなければ詩は生成しない。 言葉は詩人にとっても、あくまで借り物に過ぎない。ダラチンスキーさんのアプローチのように自作をどんどん解体したり、 あるいは他人の声に自分の作品をゆだねることにより、「借りた」言葉を「世界」に帰すということができるのではないかと思う。 そのプロセスから生成されるのは、作者も気がつかなかった、作品のもうひとつの姿ではないのか。 ひとつの詩から、声の数だけ複数の「世界」が生まれれば、すばらしいことだと思う。 数日後。 市内のライブハウス(於・スペース遊)で行なわれた、ダラチンスキーさんとジャズミュージシャンとのコラボレーションにも足を運んだ。 リハーサルは一切なし。ぶっつけ本番の、インプロビゼーションである。 といってもセシル・テイラーのようなアヴァンギャルドなサウンドを想像してはいけない。 ファンキーでノリのいい、エンタテイメントとしてもじゅうぶんに愉しめるライヴで、 緊張感を強いられたギャラリーとは全然ちがっていて、これまた驚かされた。 むしろ、こういうジャズミュージシャンとのコラボレーションが、本来の詩人の姿かも知れないな。 2時間ちかいライブの最後の言葉は、「jazz makes me」。 そういえば、「i have a dream」ではじまるすばらしい声のパフォーマンスもあったっけ。父のラジカセで聴いた、あのすばらしいグルーヴ。 アメリカには成熟した声の文化があると、痛感した。ビート・ジェネレーションの文化は、若い世代には受け継がれているのだろうか。 ぼくも「ライヴ」になりたいな...などと無謀なことを夢見る。
by thatness
| 2006-07-06 00:17
| ある日
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