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有と無のあいだで

玄侑宗久さんの『中陰の花』(文春文庫)。

2001年に玄侑さんがこの小説で芥川賞を受賞された頃、ぼくはまだ仏教に深く共感するというところまでいってなくて、 法衣に袈裟をつけ授賞式に臨んだ姿はなんとも胡散臭かった。 僧侶というと、世襲でなんの苦労もなく財産を相続し(実はこれ、宗派によって異なるらしい。この小説ではじめて知った)、 税金もろくに払わず、檀家まわりを適当にして、あとは絵を描いたりジャズを演奏したり好きなことばっかりしている連中ではないか。 どうせ檀家まわりの余暇に好きなだけ読書してのんびり書いて...あれよあれよと有名人。

自分で書いていて情けなくなる、なんともバチあたりの第一印象である。しかしテレビでたびたび拝見するときの姿勢の美しさ、 決して早口にならず、まるでそのまま文字がイメージできるかのようなわかりやすい話しぶりに好感を持ち、 専門道場でのおもしろ体験談や、『禅的生活』、『私だけの仏教』など(読みごたえたっぷり)の新書から手をつけ、 小説も愛読するようになった。
岩波文庫の原始仏典や、鈴木大拙翁の随筆も好きだが、ぼくの仏教へのいちばんの水先案内人は彼だったかも知れない。

仏教、それはとどのつまり「人間は死んだらどうなるのか?」 「生きる苦しみはどうして消えないか?」という命題に応えることだろう...。 しかし、死は生きているかぎりわかることではない。死者のためというより、 生き残った人のための「要は気持ちの落ち着かせどころだと禅宗では考えている」のだそうだ。 けれど、人は死んだらどうなるのか、納得のいく世界観を聞きたいのが人情である。けれど、これがなかなかむずかしい。

「なあなあ、人が死にはったら、地獄に行ったり極楽に行ったり、ほんまにあるんやろか?」
「知らん」
「知らんて、あんた和尚さんやろ。どない言うてはんの、檀家さんに」
「そりゃあ相手次第や。極楽行こうと思って一所懸命生きてる人の邪魔はしないけど、今の世の中、 地獄へ行くぞって脅しても誰も聞いてくれないよ」
「せやけど訊かれるやろ、極楽はあるか、ないかって」
「たまにね」
「どない答えてんの」
「だから相手次第や。信じれば、あるんや。信じられなければ、ない」

作中の、臨済宗の僧侶則道と妻圭子の会話である。

科学万能の先進国日本で、西方浄土や輪廻転生をほんとうに信じる人がいるのかどうか。 その一方で、死別や病の苦しみに応えるため霊能者、スピリチュアルアドバイザーと呼ばれる人が有名無名を問わず、ごまんといて活動している。 完全なインチキもあれば、ほんとうに「みえる」人もいないわけではないだろう。 宗教家は大変な時代を生きているのだ(...という自覚のないお坊様も多いだろうけど)。
則道は、自らの死期を預言して逝ったおがみやウメさん、新興宗教に入信して「見性(悟り)」を得たと断言する檀家の徳さんに、 正面からぶつかることが出来ない。神通力があるわけでもなく、悟りもないからだ。 ただエピソードを受けいれ、狂言回しにのように振り回されている。

頼りなくみえるけれど、そもそも、あの世があるのかないのか、言えないのではなく言わないのが釈尊であった。 作中、則道は釈尊が弟子に語ったエピソードを反芻する。 「お前たちのすることは、目の前に矢が刺さって苦しむ人の、その矢を抜いてあげることではないか。 けっしてその矢が、どこから飛んできたかを詮索することではないのだ」と。

一見すれば、これは現代の医療現場とほとんどおなじというか、シンプルな合理的主義そのものである。 わからないものは、わからないと切って捨てるのだから。しかし釈尊には「涅槃」や「解脱」の境地という切り札がある。 禅なら「見性(悟り)」...だろうか。生きているものに死の世界はわからないにしても、それらを超えて見えるまことの世界がある。 凡夫にはこれ以上のことはいえないけれど、その存在を信じることで、生きる意味や価値が変化するということはあるに違いない。 そこを自分が受け入れて生きるかどうか、なのである。

中陰とは中有ともいい、亡くなった人が成仏するまでの(広辞苑によれば次の生を得るまでの )期間、一般的にいえば四十九日のことを指す。玄侑さんによれば、これは「有」と「無」の中間の在り方、 あるいは「陽」と「陰」のどちらでもあるような在り方であるという。 物理学的でいうと、質量とエネルギーのどちらでもあるような状態になるのだろうか。いずれにしろ常識ではかんがえられない世界。

実は則道の妻圭子は4年前に子どもを流産していて、その体験が彼女を縛りつづけている。 しかし、則道には彼女の気持ちがまったくわかっていなかった。 中陰の時空をさまよっている我が子のために、圭子はとんでもないものを拵えていて則道は驚愕する。 それは超自然的な現象でも、霊的な存在でもない。しかし、まさに中陰...。 則道には、中陰に咲いた花としかいいようがないものだった。
読者にもまたその瞬間、生死を超えた広大な世界がほんのすこし、微風が頬を撫でるように見える(...たぶん)。

そういえば、以前読んだ禅の解説書にこういう一文があった。「大海の波浪は是れ常有にも非ず、常非にも非ざるごとし」 「水の中を尋ねても、見よ、波はなし、されども波は水よりぞたつ」

小さい波は、大きい波を見ていつも肩身の狭い思いをしていた。おなじな波なのに、 どうしてこんなに大きさが違うのか...。すると、大きい波は小さい波に「自分の本体を見ていない」という。 「波は君の仮の姿で、本体は水なのだ」「君は自分の本体に気がついたとき、もう波の形に惑わされることはない」

ひとつの波は、いうまでもなくひとりひとりの人生のことだ。波の本体に水というものがあるなら、 波が崩れて消滅しても水は水として在りつづける。人生は水の流れであり、パターンにすぎない...。 しかし、波は波であるかぎり、波として生き続けるカルマを背負っているわけで、自分が波であることから逃れることは出来ない。 波で在りつつ、水であることに気がついたならば実に深い世界が広がるはずだ。

このエピソードには腑に落ちるところがあり、ぼくは「悟り」というとまずこのたとえを思い浮かべる。 その納得は「悟り」そのものでは全然ないけれど、波としての自分、本体としての水とはなんなのか、 そういう存在の在り様は信じられそうだと思っている。水は「信じれば、ある」。

仏教は、これからも追いかけようと思う。

玄有宗久さんの著作では、『中陰の花』にかぎらないが、最新の素粒子論や相対性理論、大脳生理学や現代哲学まで、 仏教以外の知の蓄積がたくさん引用されている。それでもいわゆるニューエイジ系というか、スピリチュアル系のうさん臭さがいのは、 臨済宗の専門道場で厳しい修行を積んだ経験に立ち、都合のいい憶測や幻覚にまどわされないからだ。 玄侑さんは、自分は悟ってはいないと明言している。だから「みえる」とか「わかる」とかんたんには言わない。 身技両面で教養のある人なんだと思う。

仏教が過去形の精神文化ではなく、その全貌をあらわし「この世」でほんとうに力を発揮するのはこれからかも知れない。 「一歩先」の未来を感じさせる『中陰の花』なのであった。

by thatness | 2005-08-23 17:57 | 書物
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