カテゴリ
以前の記事
2006年 08月 2006年 07月 2006年 06月 2006年 05月 2006年 04月 2006年 03月 2006年 02月 2006年 01月 2005年 12月 2005年 11月 2005年 10月 2005年 09月 2005年 08月 2005年 05月 2005年 04月 2005年 03月 2005年 02月 2005年 01月 2004年 12月 2004年 11月 2004年 10月 2004年 09月 2004年 08月 2004年 07月 2004年 06月 フォロー中のブログ
検索
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
12月のある日、スターバックスで読書をしていて、ひとつのタンブラーに目がとまった。 白クマの親子が雪景色のなかで抱きあっている図柄。かわいい。思わず手に取ってしまう。そこではたと気づいた。 ...これは、ひょっとして100DRINEの作品ではないのか? 掘り出し物かも...。
その場ですぐに買えばよかったのに、優柔不断で(毎度のことですが)ついつい先延ばしにしてしまう。 無駄遣いをしないという利点もあるにはあるが、買いぞびれて後悔することも多い。 気になるそのタンブラーも、大晦日に店に足を運んだときにはもう無かった。クリスマスの限定商品だったのである。 結局どうしても欲しくなり、ヤフオクで検索して探しだし落札。落札価格はほぼ定価ではあったけれど、送料や送金手数料のぶんだけ余計にかかってしまった。 しょうがないです。。 100DRINE。フランス語なのでサンドリーヌ(またはソンドリヌ)と読む。本名、Sandrine Fabre。 1970年生まれ。国立美術装飾高等学校にてデザインテキスタイル科を卒業。現在、イラストレーター、画家として活躍中。 6、7年前、ネットである方から「ものすごく愛おしい絵のポストカードを見つけたのだけど、 作者がわからない」というメールをいただいたのが最初の出会い。それはほんとうに愛おしい絵で、ぼくもすっかり気に入ってしまった。 しかし、作者についてはまったくわからない。100DRINEというサインはあるが、それがアーチストの名前だとは思いもよらない。 その後、ポストカードが(わが町のような田舎の)雑貨屋さんにも並ぶようになり、公式サイトもいつのまにか立ち上がり、 ようやくアーチストについての情報が入るようになった。 いまでは小さな絵本が日本語で出版されているし、ポストカードの他、カレンダーなどもアマゾンや丸善で入手できる。 彼女の絵の魅力は無垢であること。これに尽きる。 ややくすんだ感じの色調を背景に、崩れた線で描かれた動物や人形のポートレート。 愛犬から無垢な瞳でみつめられたら愛撫せずにはおれないように、彼女の絵は(いい年をした男がいうのもなんだが...) 宝石箱のなかにしまっておきたいような気持ちにさせる。100DRINEのファンは、こういう絵描きを知っているぞと、 声を大にして言いたくはないのだ。自分だけのフェイヴァリットとしてお守りのように心に止めおきたい...、 そういう気持ちにさせてくれるアーチストなのである。 美術の世界では、「かわいい」とか「好き」とかは絵本やイラストの世界であって、ほとんど見向きもされなかったように思う。 ましてや美術批評の世界ではこれが「好き」「かわいい」などという言葉は禁句に等しい。 しかしながら、この100DRINEやわれらがMAYA・MAXXなどの(あきらかにすぐれた)作品をみるに、 「かわいい」や「好き」と思いなすことに何の違和感も感じない。 100DRINEの線はひ弱で、かたちは崩れかけているように見える。しかし、だからこそ絵が生きている。 彼女がしばしば絵のモチーフにぬいぐるみやペットをえらぶが、それらはいつかは捨てられ、寿命が尽きて死ななければならない運命にある。 ささやかな日常生活のなかの、受け入れがたい不条理。あまりに小さく、 ありふれていて表現にならなかったような哀しみやよろこびの世界をしっかりと受け止め、抱きしめているのが100DRINEなのではないか。 われわれがぬいぐるみやペットにしたように、彼女の絵には、愛するものによって吹き込まれたいのちや愛情があふれいる。 「かわいい」「好き」という感覚がアートの世界でも愛されるようになったのは、われわれの中に、 いまだかつて無かった弱さや壊れやすさへの信頼感があるからではなかろうか。 弱さや壊れやすさは、心を傷つきやすくするけれど、新しい世界への順応性にすぐれ、塗りかえる力もある。 たとえば、ウイルスがそうだ。熱に非常に弱く、生命力はないが遺伝子の構造がシンプルなので変異しやすい。 壊れやすさは、ひとつのサバイバルなのである。新しいアート、または新しいハピネスが、壊れやすさのなかに宿っていてもおかしくない。 さてさて...。年が明けて落札したタンブラーが送られてきた。 なかなかいいぞ。しかし、しげしげと眺めるうちに、ほんとうにこれが100DRINEの絵かどうか、確信が持てなくなってしまった。 彼女の絵にはかならずサインがあるはずなのだが、ない。色彩や線のタッチはまぎれもなく100DRINEなのだが、いまひとつ深さが足りないような。 ううむ、ちょっと自信がないのです。 ついでにいうとこのタンブラー、実用性がほとんどありません。魔法瓶のような保温性があるわけはないんだが、 飲み物の冷め具合がふだん使いのマグカップと大差ないのにはがっくりきた。いちいちカップに注がないといけないぶん手間がかかる。 ようするにこれは、お店から会社へ飲み物を持っていくときの入れ物に過ぎないのだろう。でも、せっかく手に入れたもの。大切にするつもり。 それにしても、スターバックスのタンブラーにプレミアがついているとは知らなかった。 ヤフオクをのぞいてみると、地域限定、期間限定のデザインがいろいろとあり、見たところなかなかいいものが揃っている。 定価よりも高い値段(といってもまだ、法外な価格ではない)がつくところをみるに、すでにコレクターがいるのだろう。 ちなみにスターバックスの公式サイトを見てみると、デザインを自由に変えられるマイタンブラーも売っているらしい。 タンブラーの型紙がPDFで公開されているので、プリンタで印刷して好きな絵やデザインを描き、底蓋をはずして中に挟み込む仕組みだ。 これは面白い。わがサイトの開設2周年記念にでもドローイングを描いて皆さまにお配りしようか。...と思っているが、迷惑でしょうか...? website 100DRINE #
by thatness
| 2006-01-09 00:40
| 美術_art,photo
紅白歌合戦を見ていて、面白い体験をした。
隣の部屋で、母がラジオで紅白を聴きながら正月飾りの準備をしていたのだけれど、 漏れ聞こえてくるラジオの音声とテレビの音声とがあきらかにズレているのである。 ラジオの音声のほうが、テレビより0.5秒くらい早かっただろうか。中継局の関係か、情報量の違いなのか、 わからないけど完全なリアルタイムなんてありえないんだということを思い知らされた。 1984年に、ナム・ジュン・パイクが「グッド・モーニング・ミスター・オーウエル」というテレビ番組を製作したことがある。 ジョージ・オーウエルの近未来小説『1984年』、記念すべきその年がついにやってきたということで、 第一線で活躍していた音楽家やアーチストにリアルタイムで演奏やパフォーマンスをしてもらい、 衛星中継で世界中にオンエアしようという大掛かりなイヴェントだった。 たしか前日の大晦日から元旦にかけて12時間くらいぶっ通しで欧米を中心にオンエアされたはずだが、1時間程度のダイジェスト版をNHKも流してくれた。 これで面白かったのは、パイクは衛星中継のタイムラグを利用したエフェクトを映像に加えたことである。 たとえば、ニューヨークで踊っているマース・カニングハムの映像をヨーロッパで受信し、 もう一度ニューヨークに戻して合成する。元の映像とヨーロッパで受信された映像が重ねられると、 マース・カニングハム本人とまったくおなじ動きを、地球を半周して戻ってきたドッペンゲルガーがタイムラグのぶんだけ正確に追いかけるのだ。 有機的な人間のパフォーマンスと、衛星中継システムによるメカニックなドッペンゲルガーとの共演がなんともシュールであったのを記憶する。 紅白を見ていたときの音声のタイムラグが面白く、ラジオをテレビの前に置いてみた。すると音声にエコーがかかったような効果が生まれる。 まるでホールにいるような臨場感だ。同時に、ぼくは理解する。自分がいま目の前で見ている紅白は厳密な意味でのリアルタイムではなく、 時間差があること。ばたばたと進行する歌も司会も、その実体はただの電波であり、 その場にいないかぎりはイリュージョンを見ている過ぎないこと。なんという孤独。 イリュージョンがぼくの中でただの電波に還元されると、わが家のお茶の間が沈黙に包まれていくのを感じる。 ここは東京ではない。もの言わぬ地球という実存の中の一点に過ぎぬ、という思いなしが浮かび上がってくる。 紅白を見ていて、なんとなくパイクのイヴェントを思い出したわけなのだけれど、いまから思うと、電波のタイムラグというアイデアは面白かったが、 単なる効果(絵画的にいえば装飾)としてしか生かされてないのが残念に思う。 タイムラグはフォンタナの絵画に見られる切り裂き痕の役割を果たしてはいるけれど、 絵画そのものの範疇にはとどまっている。 あの頃のパイクは...というかビデオアーチストたちのほとんどが、テレビを媒体に「絵を描いていた」といわざる負えないだろう。 モネがジヴェルニーの自宅庭の風景をもくもくと描いたように、パイクは衛星中継システムそのものを「風景」として一枚の絵を描いたのである。 昨年の紅白歌合戦を見ていて遭遇したタイムラグの体験は、日常生活に寄生した虚構をかいま見せてくれる刺激的なものであった。 それは「作品」ではないが、ぼくのなかではアートと呼んで差しつかえない本質的な体験である。 追記 ++ おととい3日の夜。 2階にいたぼくに、父が「おおい、山崎まさ...なんとかがテレビに出とるぞ〜」と声をかけてくれた。 年末から「紅白、山崎、紅白、山崎」とうわごと?のようにつぶやいていたので、両親も名前を覚えてしまったのである。 あわてて下りていくと、テレビに映っていたのは...猿岩石の有吉〜。脱力...。新春恒例のものまね合戦だったようだが、何を歌ったんだろうな。聴いてみたかった。 #
by thatness
| 2006-01-05 02:33
| ある日
Happiness dose not lie in happiness,
but it the achievement of it. 幸福は幸福の中にあるのではなく、 幸福を手に入れた瞬間にある。 フョードル・ミハイロヴィッチ・ドストエフスキー (1821-1881) ...だそうです。 つまりハピネスとは、動詞ということなのでしょう。 ++ 今年もよろしくおねがいいたします。 #
by thatness
| 2006-01-01 16:41
|
ファン申請 |
||